「サイゴにおアいしたのはいつでしたっけ?」
独特のその声が耳に届いた時、
ちょうどまさに「真っ青な本」を手に取ったところだった。
すぐには声の方を見ない。
わざと「間」を空けてジラす事にした。
へぇーこれが巷で噂の、と二割増しの大袈裟を含ませながら真っ青な本をどれどれと観察する。背表紙やカバーを丁寧に指でなぞってみた。案外手に馴染んでくる。この一冊に絡む人々の込めたであろう「オモイ」に思いをはせた。くるりくるりと見る角度を変えて眺めてみる。突然声をかけてきた久しぶりの珍客の目を意識しながら、時々は自分の目や表情にも微かな変化を表した。
少し持ち上げつつ「後付け」を開く。
そろりそろりと視線も上げながらひっくり返して表紙をまじまじともう一度眺めてみた。
ぼんやりと「声の出所」の辺りを視線の端に入れてみる。
すぐに「それらしき」は確認できて、
いるいると心にほくそ笑んでから、
さぁいよいよ、と古びたドアに挑むように表紙のフチに指をかけた。
「そのホン、ヨまないほうがイイですよ」
ん?
わざと一拍置いてやる。
「おーいここですよー」とぴょんぴょんと発散されているオーラに思わず吹き出しそうになった。
気を取り直して指をかけた表紙を慎重にめくる。見返し色、感触を確かめてから頁を送った。タイトルが現れる。その下に小さく著者名、さらに下にもっと小さく出版社名が印されていた。めくると目次。文字の種類や大きさだけでなく位置や間隔、更に紙の質や色を指の先で確かめるようにゆっくりと頁を順に追っていった。文字通りただ追っているだけで、全然観ていない、読んでいない。意識はすっかりと、視線の端でたたずんでいる「声の主」に向けられていた。
新刊本の平積みの「島」をぐるりと素見しているとフラりと対岸に現れた本屋の妖しもの。
「ホンのムシ」からのベクトルもまた完全にこちら一点に向いていた。
その事が分かってもまだ見定めてやらない。
両手は本を開いた状態でゆっくりと顔だけ上げた。
首から肩、付け根の辺りをほぐすように小さく細かく動かしながらまずは遠くに目を向ける。
視点は奥の棚にフォーカスした。
なんだか面白いからカメラでズームをするようにジッジーィと心で擬音する。
人集り、とまではいかないが奥の棚の前は盛況だった。入れ替わりながら立ち読みの客が絶える事がない。ビーズ、ぬいぐるみ、セーター、マフラー、、なるほど「手芸」のコーナーで人々の足が一旦止まっていた。季節である。もう完全に秋なのだった。忙しさに衣替えのタイミングを逸し続けている。ホントの秋は来月から、と移り変わる空気よりもスケジュールでそう決めてしまってからまだ格好に夏を残したままだった。ズレるから、この広い世の中でふわりと独り、また浮かぶ。今月もあれよと終わろうとしていた。
「イソガシさ?」
一歩踏み込んでくる。
意識のふちの内側に触れられた。
「シアワセにかこつけて」
ニンマりと一ミリ上げた頬を気づかれぬように戻す。
ナニさ、を慌ててのみ込んで、もう少しこの出来事を楽しみたいと駆け引きは続くのだった。
私生活が充実すると心が体がすこぶる良好、そんなストレートがレア者を引き寄せる。
本の蟲などとも呼ばれる「本屋の小さな神さん」との久しぶりの遭遇だった。
追いかければすっと距離をとり、捕もうとすればするりと消える。
神さんなどというものはどの方も好奇心が旺盛なくせにめっぽう臆病で、それでいてたいそう飽きっぽいのだった。
店内。
ゆっくりと視線を近くに戻していった。通路の奥から手前から棚の間の右から左から客がそそくさと視界で交差する。学生服やらスーツ姿が目立ち始めていた。そろそろ夕方に差し掛かっているのだろうか、だとするとかれこれ半日この本屋にいる計算。やれやれ、どうりで本の蟲にも興味を持たれよう、そんな事を考えていると、そう言えばと下半身の疲労感をじんわり脳が意識した。
こんな休日の過ごし方はどう?
ではと神さんと目を合わせた。
不意に問いかけてやると一瞬ギクりと目を見開いてから、
むにゃりむにゃりと何らかを口ごもる。
そして本の蟲は再び忠告した。
「そのホン、ヨまないほうがイイですよ」
なんで、とこちらは子供の時と同じ調子でため言葉が自然と出る。
開いていた真っ青な本を本の蟲の方に向けてみた。
「シアワセなトキにヨんでもてんでピンとキませんから」
そういうつくり、と付け加えて「だって、むにゃらむにゃら」と曖昧に言ってからけけっけと神さんは懐かしい笑い声を上げる。
変わらないねぇ、こっちばかりずいぶんな大人になっているのに
そう話しかけると本の蟲はうぅと唸ってから平積みの本の島に飛び乗った。
端の本の上を山が崩れんばかりにとんとんと走り回る。
笑顔がこぼれていた。
時折、ジャンプして立ち読みの者の本をタッチする。
触れられた本はなんとなく山に戻された。
そして、疲れ顔の客達はなんとなく真っ青な本の前に進む。
ぐるぐるぐるぐる
それから何周も神さんは嬉しそうに平積みを回り続けていた。
入店の客が増え始め、
エントランスに程近いこの「島」でとりあえずと「真っ青な本」が次々と手に取られてゆく。
本の蟲が去って、最後にもう一度、手に残っている真っ青な本を眺めてみた。
全体にそっと触れて、話題性からくる軽薄さのない「いい本」だと改めて感心してみる。
率直に「綺麗」と思うのだった。
新刊本の平積みの島の元の場所に本を戻す。
いつの間にかそこだけずいぶんへこんでいた。
いつか読む時が来るのかなぁ、と思ってみる。
その時はシアワセじゃないのかなぁ、としんみりと想ってもみた。
まずまず、
いい休日だったな、とそれだけを確心して混み始めた書店をあとにする。
ビルのガラスドアを押さえてくれている屈強な老紳士に会釈をして入口を抜けた。
秋の冷風がむき出しの膝小僧を笑う。
まだ残る夕焼けの空と街のネオンが混灯する見飽きない空が視線の先にあった。
夜になる。
完全に暗くなるまでの残り僅かな時間で家に着いてしまいたい気持ちが引っ込んでこの中をゆっくりと歩こうと決めた。
立ち疲れてるはずの足腰が軽い。
歩き出してすぐに軽薄なアナウンスに追い抜かれ大きな広告車が先の交差点の信号で停車した。
映画化決定、真っ青な本、増刷絶賛発売中のラッピングに誰もがぼんやりと釘付いていた。
信号が変わって走り去ってしまう前にたったと駆って追いつき追い抜いてしまう。
信号が変わって車列が走り出したって到底追いつけないくらいにダッシュした。
夜の準備で冷えた空気にふんふんと息を切らせながら、
来るなら来なさいとどんどん加速する。
下品なアナウンスがようやく聞こえなくなった頃、
すがすがしくどこまでも抜ける空を見上げてみたら、
なんだか「わぁー」と叫びたくなって、
足下のマンホールを大きく蹴って、
ぴょーんとどこまでもジャンプした。
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