あ。
左手で次に聴くポッドキャストを探りながらiPodの画面を見ていると、
ブレーキを握る右手の甲にぴとりと小さな衝撃が伝わった。
雨。
杉咲都子は交差点で信号待ちをしていた。
選んだ番組の冒頭の聞き慣れたコマーシャルを早送りしながら空を見上げると切り過ぎの前髪の先にもうひとつ、すかさず自慢の眉毛にもぴとり。雲が散れて、春らしくぴかぴかと澄んでいたはずの空がずしりと停滞していた。いつの間にはびこる雨雲が、鈍い色で重苦しい模様を空一面に描いている。杉咲都子は外側にぶら下げているiPodを濡らさぬようトートの中に向けて入れた。
洗濯物。
前カゴでポっポっとスーパーのポリ袋が大粒の雨を弾いていた。
手前、歩道に一番近い車線を回送の路線バスが何台も通過してゆく。ちらとだけ見える運転手は皆がやたらに若かった。一直線に遠ざかってゆくバスの列を目で追いながら、この時間にこんなにいったいどこに行くのか、そんな好奇心が芽生えながらも、このたった今、うちのベランダで干されている洗濯物たちの存在感がみるみる膨張し冷静に脳が支配されてゆくのである。
乗客のいない空っぽのバスの連なりの最後の一台の後姿を見送ると杉咲都子は両手を緩めてブレーキを開けた。じわりと前に出る。信号が変わるのを待たずにぐいとペダルに体重を乗せた。信号無視のドキドキは大人になっても慣れることがない。横断歩道の中間の段差で今日の買物が小さく跳ねた。飛沫。信号がようやくアオにかわるとささやかな安堵に杉咲都子の自転車はぐぐんと加速していった。
駅前から住宅地への短い賑わいで夕方の入口のささやかな雑踏がわらわらと足早である。昨日今日辺りから新学期が開始していた。制服の学生達がしばらくぶりに目について、四月も一週間が経過した事を実感する。そりゃそうだ、あれもこれも春らしい、なんだか嬉しいに似た妙な心地で杉咲都子は家路を急ぐのだった。
方向の定まらない強い風が杉咲都子の自転車を揺らす。不意な天変地異の予感と期待、到来する巨大なエネルギーに蹂躙される妄想に自分の内側がわーわーと騒ぎ立っていた。
ざわざわざわざわとわき上がる興奮がなんだか愉快。
風に乗った大粒の雨にむき出しのおでこを叩かれながら「はるのあらし」と心でつぶやいてみた。
ふふふふ。
杉咲都子は思わず口に出して笑っていた。
予期せぬどうしようもなさが気持ちを高揚させているのか。
こんな風なハイな気分がどこか懐かしかった。
雨が多分そうさせている。
雨のこの匂いに杉咲都子は自然と気持ちが上を向くのだった。
寄り道をしよう。
衝動でそう決めると、杉咲都子の自転車は遠回りの方向へとコースを変えた。
急ぎだったはずの脳を心の衝動が説き伏せる。
「何か」がそこにあるはずだった。
清掃工場を大きく回り込んだ裏手にある道が目的地である。
細い運河に沿って一直線に伸びるその道で両側の桜が満開だった。
増水を始めた運河にしばし目をやってから杉咲都子は目当ての桜に対峙する。
左右の木々の枝が地面から五メートルの高さで広がって、
道の中央で行儀よく交互に入り組んでは真直ぐにトンネルをつくっていた。
読みは的中し誰もいない。
ここ数日間、あえてこの道を選ぶ人々で連日ささやかな行列となっていた。
今日、この時間は杉咲都子の貸し切りである。
しっとりと濡れた樹皮はより黒々と満開の白がいっそう栄えていた。
ずっと先、奥まで見通すのは初めてである。
アスファルトに落ちた花びらのモザイクが遠くなる程に密になり枝々に盛る花と融合している。
杉咲都子は自転車を降りた。
ゆっくりと幻想に踏み込んで行った。
満開に隙間を埋められて、
守られている空気が湿潤である。
肌に触れる湿度は春の嵐の中で感じたそれとは違って、
大きな生命の呼吸の中にいるようだった。
そんな幻想をゆっくりと進む。
やがて中間の地点で音が消え真空、
入口でイヤホンは外してあった。
振り返り、
見回して、
やはり自分以外無人。
耳をじっとすましてみた。
もう一度、
今度は下も上も見回してから目を閉じる。
やわらかい風が時々吹抜けた。
無い音を聞く。
そして、頭上で鈴が鳴った。
トンネルの一番内側で雨の届かない所で桜がリリンと揺れている。
道路に伸ばした枝の先の先で、
満開の分せり出したそれぞれの小さな花の、
花びらと花びらが触れ合っては、
微かな音を発していた。
この瞬間この場所の奇跡。
そして、
気配にそっと目を開けると、
精たちが踊る様に飛ぶのが見えた。
桜の鈴に呼ばれるように現れた小さな妖精。
杉咲都子は蝶道のように描かれる無数の光る帯の眺めていた。
きらきらをいつまでも、いつまでも。
杉咲都子はやっぱりユメをみた。
妖精に触れた次の朝は必ずユメから目が覚めるのである。
覚醒の直前にみるソレは、
不思議といつも必ずちょっといいユメなのだった。
なのでいつしか杉咲都子は妖精に対して好意を寄せている。
醒めてしまうとソノ出来事はほとんど記憶になかった。
ぼんやりとしか憶えていない。
ユメだし、そんなもの、
ウレシガッカリの浮ついたテンションは自分でそう慰める事にして、
杉咲都子はユメを思い出そうとしなかった。
それがどんなにハッピーであってもである。
今朝のぼんやりと憶えている部分、
バスの運転手姿のアノヒトとのやりとり、
そのいい感じだった雰囲気、
ただそれだけ、
空気みたいなそれだけ、
たとえそれだけでも、
現実日常に忘れてゆくまでの刹那でも、
ぼんやりとでも想い描けたなら、
そんなやさしい気分をじんわりと堪能すれば、
それで、
ささやかにも温か、
それでいい。
いつも通りに眠気に包まれながら、
今朝は特別に出るハナウタも野放しに、
いつもよりも、
どこか少しだけテキパキと、
杉咲都子は出勤の身支度をるるると開始した。