外の空気を吸うために洋平は網戸を開けた。
“眠る前にベランダに出たくなる”
洋平はそんな衝動に毎晩駆られていた。
この部屋に越して来て今週で10週間が経とうとしていた。
最上階の角部屋から見える景色には2週間で飽きたが周りの視線からの開放感が何物にも代え難い事は最初に内見した日から今日まで揺るぎなかった。
歯を磨き終わると洋平は寝る準備を整えて部屋の照明を全て落とす。
そして衣服を一切脱いでしまうとベランダに出るのだった。
その一連はもはや儀式のようであったが、そこに義務感はなく、ただ、闇の中を蝶の道を進むように真新しい絨毯をさくさくと裸足が夜を目指す。意識ははっきりしている。いつも正気だった。ベランダの角に立って高さ 150㎝ の壁の上部に手をかけるとゆっくりと体重をあずけていく。全体重が鉄筋コンクリートにのしかかった時、マンションと一体となった。ひんやりとしたそんな感覚を洋平は楽しんだ。そして、深く夜の空を何度も吸い込んでみる。その場所で洋平は物思いにふけた。今日の仕事を反芻したり学生時代を回顧したり時々は明日を占ったりもした。欠伸が出るまでが儀式だった。
立て付けの悪い網戸は引っかかりながら洋平分が開きすぐに外からがたがたと閉められた。
夏だった。夜がめっきり夏だった。
地上から明るい声がする。
子供が笑う。
レストランでの夕食の帰りだろうか。
ちりちりと手持ち花火の音がする。
裏の公園からだろうか。
コンビニの店頭に花火が並びだしたのを思い出した。
星のよく見える夜。
明日の予報は雨だったが晴れるかもしれない。
洋平はど素人の自分にも分かる星座を探してみたがすぐに断念した。
なんとなくいつも決めている就寝時間はとうに過ぎていた。
起きられるか明日の朝への心配がむくむくと膨らんでいる。
同時に緊張からくる妙な高揚に意識はますます冴えていた。
明日は久しぶりのデートだった。
“この分だと今夜は欠伸が出ない”
洋平は焦りを誤摩化す様に、そういえばどこだと今夜の月を探した。
星空をぐるりと見回しながら、しゃりといった微かな摩擦音を背後に聞いた。
振り向くと隣室とのパーテーションの下、先週末に敷いたばかりの人工芝の端に黒く丸い陰があった。すぐにそれが小動物である事はわかったのだがウサギだと認識したのはぴょこと小さく跳ねてからだった。
隣室はまだ未入居のはず。。となると、隣の隣の住人のウサギだろうか。
洋平には正確な “ウサギの大きさ” の基準が分からなかったが見た所ごく普通のサイズなのだろうと思った。ウサギは時々跳ねて一旦エアコンの室外機の陰でじっとしていた。やがてゆっくりと洋平に近づいた。
時間をかけて足元まで来るとふがふがと左のくるぶしの辺りに鼻を近づけてた。噛まないよなぁとややびびっていると、もう1匹、ウサギがパーテーションの下から現れた。そして、もう1匹、そしてもう1匹、もう1匹、、次々と隣のベランダから顔を出すと、あれよあれよと洋平のベランダはすっかりウサギだらけだった。
そろそろ足の踏み場も無くなった頃、最初の1匹が大きく跳ねて手すりの上に着地した。それを合図としてか、見るとベランダのウサギ達が全て手すりの上に注目している。手すりのウサギが何度か立ち上がる様な仕草をすると、やがてベランダのウサギ達は順番に跳ねだした。次から次へと跳ねたウサギ達は順番に背中に乗っていく。ブレーメンの音楽隊のように器用に重なっていった。塔の様になったウサギ達はやがて洋平のベランダの屋根を越えてマンションの屋上の方に向かっていく。洋平はその先を見ようと身を乗り出して空を見上げた。
そして目を見張った。
探していた月はマンションの真上にあった。
まるでSF映画の宇宙船のごとく地球に接近し、かつてない大きな姿でそこにあった。
ウサギ達の成す塔は “そこ” に向かってどんどん伸びていた。
ベランダを占めていたウサギの数は減らない。
どうやら次々と隣室から追参加しているようだった。
ウサギ達は順番を守りながら器用に月への塔をつくる。
洋平は坦々と繰り広げられるその様子をじっと見ていた。
ようやく最後の1匹がベランダから跳ねて塔を登っていった。
視線を戻すと手すりの上で最初のウサギが何百というウサギを一身に支えている。
目を閉じて平然と涼しい様子でそこでじっとしていた。
最後のウサギが出発してからしばらくすると合図の様に震動が塔の上から伝わった。
するとウサギ達の塔全体がぐぐっと伸びたかと思うと、てっぺんのウサギがぴょんと飛び跳ねて月に向かって泳ぎだした。一定の距離を空け次のウサギが連結から外れて月を目指す。次々と離れていくウサギは線から点となって月へと続いていった。
点はやがて再び一筋の線に見えて遥かな月へと細く伸びていた。
いよいよ最後の1匹がマンションを離れる。
洋平は手すりに背中をもたれかけて半身を海老反りながらその様子を見ていた。
ついさっき洋平のくるぶしを嗅いでいたウサギが遊泳している。
どのウサギよりも上手に泳いで行った。
洋平が感心しているとウサギは小さな点となりすぐに線に溶けた。
ウサギ達の遊泳の線は短くなり見えなくなった。
無事月まで泳ぎ切ったかは分からないが月はずっとそこにある。
地球に史上最接近した位置でどんとあった。
どんとそこにあって、そして月らしい色のやさしい光を反射していた。
世界の裏側から太陽の光を日本の静かな夜に控えめに届けていた。
最後のウサギの到着を静かに待って次の夜の国に移動するのだろうか。
洋平は背中の痛みも首の痛みも忘れて妙な体勢のまま月を見上げていた。
人生最大の月をその裸身に浴びていた。
ただ1人、自分だけの場所でいつまでもいつまでも浴びていた。
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