見覚えのない徳利(とっくり)が流しの隅にあった。
奥さんはもうパートに出ている。
砂賀葉二はおそるおそるそいつに手を伸ばした。
そして、触るのをやめる。
部屋干しのハンガーからタオルを1枚外すと洗面所に向かった。
今年一発目の深夜勤が明けた。
このところ、砂賀葉二のような若い妻帯者にも容赦のない勤務シフトが組まれている。
年末を間近に控えて工場もいよいよ稼働率がピークになっていた。
職場を出ると空気はすっかり冬のそれであった。
風が露出した襟もとに冷たい。
天気予報が相変わらずの “やや” の傘マークでなんとなく警告していた通りに、今日も “なんとはなしの” すっきりしない空だった。
マンションに着いて部屋のドアを開ける。
その瞬間にマミコさんがすでに出かけている事が分かった。
室内の空気がしんとしている。
椅子にデイバックを投げ出すとよごれ物だけ出した。
テーブルの上に小さなメモが1枚。
そのとなりには “マミコさんのおいなりさん” があった。
奥さん手製のいなり寿司はごはんがいつもたっぷりとつめられている。
ころっころの独特なおいなりさんであった。
マミコさんは作りながら皮を1枚食べてしまう癖があった。
本人に聞くと、え、うそとなるのでどうやら無意識らしい。
胃袋に消えた1枚分、いつも酢メシが余った。
それを必然的に調整していくと “マミコさんのおいなりさん” が皿に出来上がっている。
底の平らなボウル皿にラップがかけられていた。
上品に並ぶ2つの太ったいなり寿司。
それを見て砂賀葉二はふふとニヤついた。
ラップ越しにてかてかと光るきつね色を見ていると、疲れているはずの身体をよそに砂賀葉二の脳が眠気よりも食い気へとシフトした。早速食べましょうかと手を洗おうと流しに向かうと、、
そこに、その徳利があった。
砂賀葉二は洗面所に行って手となんなら顔も洗うかと思っていたが結局シャワーを浴びた。
眠気はすっきりと覚めてキッチンに戻る。
流しを覗くと徳利はまだそこにあった。
デイバックを椅子から下ろし腰掛ける。
おいなりさんの皿を寄せた。
脇に添えられたメモを見ると吹き出しで「おかえりー」と書かれていた。しゃべっているのは奥さんの得意な猫の絵である。宇宙服の様な装いで裏面へと誘っていた。
メモを裏返すとシルクハットにくるりん髭の紳士面した魚が「いってきますぞ」と言っていた。ドジョウかな、、徳利については何も記されていなかった。が、楽しい。
こういった細かい芸を自然にする奥さんを砂賀葉二は尊敬した。
絵も字もまぁヘタである。
ただ、それもやはり “マミコさんの” 絵であり字だった。
好きだった。
砂賀葉二はもぐもぐと2つ目のおいなりさんに手を伸ばした。
わきに添えられていた胡瓜漬けまであっという間に平らげて一息ついた。
ベランダから見える外はやはり薄暗い。雨が降っているのかもしれなかった。一部曇った窓ガラスが外気の低さを分かりやすく伝えている。
空腹が満たされると追いやられた眠気がどんと揺り戻った。ふわと欠伸をする。そのまま突っ伏したくなる衝動を殺してよしと腰を上げた。軽く伸びをする。
食べ終わった皿を持って流しへと立った。
徳利はまだ当然そこにあった。
よし、、と触れてみる決意をした。
洗った皿を水切りカゴに立ててシンクの周りに跳ねた水しぶきを台拭きで丁寧に拭う。
それから少し観察してから “見覚えのない徳利” の首の部分をつまんでみた。
徳利はささやかに重かった。
酒なり、液体の詰まった様な感触ではない。
容器の底でじっと何者かが胡座(あぐら)をかいているような、そんな重さだった。
そっと目の高さまで持ち上げると砂賀葉二は水を入れてみたくなった。
悪戯に湧いた衝動を抑えながら両手で持ち替えてはその感じを丁寧に確かめる。
中を覗いてみようと流しの蛍光灯を点けた。
その時、
中の “もの” から微動が手に伝わり徳利を落としそうになった。
慌てて両手で包む。
手の平を通して “中のもの” が徳利の中で飛び跳ね始めたような感じがした。
とーんとーんとトランポリンでも飛んでいるかのように滞空時間の長い “跳ね” が伝わる。
なんとなく覗く事を躊躇して徳利を流しの元の場所に戻した。
こういうのは奥さんの専門だ。。
砂賀葉二はぽりぽりと二の腕をかきながら寝室へ向かった。
目を覚ますと奥さんは帰っていた。
部屋の空気がやわらかく、それだけですぐに分かった。
マミコさんはリビングでテーブルに着いていた。
目の前にはあの徳利が置かれている。
「おかえり」
そう言って砂賀葉二は寝起きの動きで椅子を引いた。
ただいま、そしておかえりとマミコさんもニヤつく。
“見覚えのない徳利” を前にに2人は向かい合って座った。
マミコさんは今にも笑い出しそうな表情でずっと無言だった。
「あの、これ」
しばらくの間、何かを待つ様にお互い見合っていたが意を決し砂賀葉二が口を開く。
覗いてみて
うんうんと満足げに頷くとマミコさんは言った。
「いいの?」
砂賀葉二が確かめると奥さんはニコリと歯を見せる。
砂賀葉二は徳利には触れずに身を乗り出してゆっくりと中を覗き込んだ。
徳利の中はまるで宇宙だった。
ぅわと思わず砂賀葉二は目を離した。
奥さんを見る。
マミコさんは頬杖をついたままそんな様子を嬉しそうに見守っていた。
何やら安心して砂賀葉二は視線を戻した。
口から少し下がった部分から闇が続いている。
徳利の中は星のように小さな光が散らばりなんとなく距離感を意識できた。
星の光は遠くなる程に大きく強くなる。
異様な空間が広がっていた。
遥か下の方にはいくつか惑星の様な物が見える。
焦点を当てるとその部分が近くに寄って来てどこまでも奥へ奥へと進んで行けた。
砂賀葉二は奥のそのまた奥に1つの小さな惑星をみつける。
そこは小さくもひときわ美しい星だった。
じっと見定めるとその惑星で何かがぴょんぴょんと跳ねていた。
それは人間の様に見える。1人、、いや2人。
2人の男女が手をつないで惑星を飛び跳ねていた。
そこはね月と重力が一緒なの
マミコさんが囁いた。
「じゃあ6分の1だ」
覗いたままでそう言うと奥さんのふふふが聞こえた。
砂賀葉二は飽きずに見ていた。
2人の男女も飽きずに飛び跳ねている。
楽しそうにいつまでもぴょんぴょん飛び跳ねている。
惑星には2人の男女の他には何もなかった。
手をつなぐ男女が跳ねながら近づいた時、
そっと目を凝らすと2人は自分とマミコさんだった。
あ。。
視線を上げるとマミコさんは何かを思いついたように席を立った。
宇宙より帰還した砂賀葉二はふぅと息を1つもらす。
奥さんは戸棚から桐の箱を取り出した。
姉夫婦からの結婚祝いの “高い” 日本酒である。
「こういうの飲んだ事ある?」
興奮もおさめながらマミコさんに聞いてみた。
奥さんはニヤニヤと首を振りながら丁寧に封を解いていく。
出ましたと最後の包み紙を空箱に入れた。
いくよと言って一升瓶の栓を抜くと慎重に徳利に注いでいく。
すぐにアルコールがほんのりと鼻先をくすぐった。
なんとも奥深い冷ややかな香りが鼻腔に届く。
2人はわくわくと高揚した。
とっとっとくとくとくとく
徳利はいい音で夫婦の猪口を満たした。
波打つ特級酒がキラキラと光ってる。
2人はちょこんと乾杯した。
カーテンが冬のものに付け替えられている。
いつの間にかマミコさん。。
厚手の布の向こう側で長い夜が始まっているのだろう。
砂賀葉二は凍てつく寒さを大袈裟に想像する。
そして目の前のマミコさん。。
砂賀葉二は温もりに溢れるこのささやかな空間をぬくぬくといつまでも味わっていた。
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