「今、よこぎったのがごきぶりってやつでしょうか」
客人はその風体に似つかわぬ上品さで穏やかに驚いていた。
くりとした丸い瞳には透明な好奇が宿っている。
客人の猫がそわそわし始めていた。
肩の上で大人しくしていた小さな小さな猫が首の裏を通り両肩を行ったり来たりしている。
「よろしいでしょうか」客人はゴキブリの行方に軽く目配せてからそう言った。
え あぁ も 勿論です
何がなどと聞く余裕はない。
この上品な客人からのいかなる申し出を「拒否しよう」などとは思いもよらなかった。
もはや、完全にこの空間は客人のものなのである。
「では」と客人は高貴な笑みをたたえるとあごを引いて小猫を見た。
なにやらごにょごにょと話しかける。
猫は肩から腕をつたいテーブルへと降りた。
客人が不思議な角度で指を動かし始めると小さな猫がちょろちょろと踊るように動きだす。
テーブルの表面にかさかさと足をとられながらも猫は嬉しそうだった。
滑る足下にもだんだん慣れて、短い四肢が上手なステップで小さな円を描きだす。
指揮棒を振るような客人の指先がとんとテーブルの端を打つと、
ピタリと脚を止めて客人を見上げた。
尻を着けて前脚を伸ばすとじっと合図を待っている。
部屋全体が固唾を飲んで客人に注目した。
長い沈黙の後で、客人はこれまでとは違いやや厳しい口調でどうやら「ゴー」と短く合図した。
散歩紐から解き放たれた飼い犬のように、客人の小さな猫はテーブルの端まで意気揚々とダッシュ、そしてそこから華麗にジャンプをきめると廊下を横切った「らしい」ゴキブリを追跡すべく部屋を飛び出して行った。
部屋の空気が停滞を取り戻し、
微かな雨音が庭から廊下を抜け再び耳に届いている。
やはり
本当にゴキブリが出たのだろう。
獲物を求める小さな獣の一心な姿には疑う余地はなかった。
まっずいなぁ
これは誰の責任なのだろうか、
出先はおそらく食料庫か、
厨房か、、
そんな事を考えていると目の前の客人の左腕が動く。
すぅと伸ばした指先で音もなく茶托が引き寄せられた。
興味津々といった表情で逆の手を湯呑みの蓋にそっとかける。
そんな一連の仕草もやはり極めてエレガントであった。
小雨ですね
言ってしまってから単に「雨」でよかったと後悔する。
障りない一言で客人から目を逸らすつもりが動揺していた。
出てしまった「妙」を開き直っって勝手になかった事にする。
逸らした視線の中でしとしとと冷たい雨が中庭を濡らしていた。
明日は嵐になるというが、
とりあえず今日、
この今を乗り切る事が何より大事。
もし「招致」に失敗したら、、
よぎる最悪の結果を打ち消そうと、
なんとなく、頭の中でシシオドシを一つ鳴らした。
(かぽん)
押しつぶされまいと、耳の奥の奥にてウグイスを続けて登場させる。
ひと声鳴かそうとしたその時に客人からふぅと息がもれるのを聞いた。
どうやら茶が客人の喉を越したようである。
向けていた首を庭からゆっくりと対面に戻した。
お気に召しただろうか。
茶請けは羊羹だった。
やや大き過ぎる皿の上の妙な形にカットされた羊羹を眺めながら不安の膨張はとめどない。先週から厨房のチームに加えた新しいパティシエを思った。よぼよぼのあの体躯から放たれた茶が渾身のものである事に期待を込めて自分も菓子の皿と茶托を寄せる。思わずため息をつきそうになった時、客人からもう一つ安らかな息がもれた。そぉっと様子をうかがうと、飲み干されたのであろう湯呑みが軽々と優雅な弧を描き、客人の手から元の茶托へと満足気に収まってゆく。いつの間にか懐紙の上の奇妙な姿の羊羹も平らげられていた。
「ごきぶり」
素敏(すばしこ)過ぎてよく見えませんでしたな、と客人のよく通る声が部屋中に響く。
ぴりと張っていた空気が嬉しく揺れた。
客人は豪快に笑う。
和の室に温かな意外性が充満した。
お気に、、召した、
のかな、と思わずこみ上げた下品な高笑いを懸命に殺す。
そしてすぐさまパティシエを呼ぶように暗に指示を出した。
好評を得たもてなしの説明をさせる。
持ち前のフットワークで畳み掛けようと臨機に手を回した。
そして、再び窮地は訪れるのである。
床の間の「眠り蛇の像」が目を覚ましていた。
予期せぬ客人の笑い声の大きさに夢から覚めてしまったのだろう。
気がついた時には大きな欠伸で部屋の空気を吸い込んでいた。
厄介である。
蛇は客人の背後でぶるりと身震い一つすると、
すくとその首を持ち上げた。
すたすたすたすたすた
足音が部屋に近づいている。
先程出て行った客人の猫がまだ廊下を走り回っていた。
やば、
いと言う間に蛇は客人のそばを這い抜ける。
廊下への戸の脇でとぐろを巻いた。
蛇はその大きな瞳をキラりと光らせてから目を細めてじっと獲物を待ち伏せている。
いかん、と思い障子戸を閉めに立ち上がった。
げこげこげこ げこげこげこ
声の先は床の間だった。
嫌な予感のまま振り返る。
蛇の睨みを逃れた水墨のガマが掛け軸から這い出ていた。
足音はいよいよ大きく近づいている。
ようやく戸に指がかかった時、小さな黒い影が部屋に飛び込んで来た。
ゴキブリ。
間に合わなかった。
そして、客人の猫が閉め切らぬ戸を抜けて部屋に入る。
蛇は勢いに乗った小猫をしとめ損ねた。
安堵。
再び飛びかかる蛇の首を、ちょうど到着したパティシエが掴み取った。
きゅう
蛇はひと鳴きし大人しく目を閉じる。
ゆっくりととぐろを巻きながら眠りに落ちていき再び像へと還っていった。
パティシエは持参したバスケットをテーブルの上に置く。
籠にはフルーツが盛られていた。
何だこれ、と聞くと「秋ですから」と的を得ているような気もする答えが返る。
傍らでは客人の小猫がいよいよゴキブリを捕らえていた。
客人はその様子をじっと見ていた。
笑いは止まっている。
上品さが失せ目が獣のそれになっていた。
どうやら、騒動に血が騒いでしまっている。
緊迫が部屋に充満を始めた。
「クマさん」
熊さんや、そう言って老パティシエはバスケットからマスカットの房を客人の鼻先で揺らす。
座り始めていた客人の目がくるりと丸くなり、柔和な表情を取り戻した。
老パティシエは皺くちゃの笑顔をこちらに向ける。
会釈をするとそのままガマに乗って厨房へと帰って行った。
バツの悪そうな顔で客人は倒れた湯呑みやら散らかりを正している。
一粒、一粒とマスカットを口に含んでは元の上品さを取り戻していった。
客人の猫は動かなくなったゴキブリに飽きている。
猫らしくかわいげに顔を洗っていた。
状況を把握できぬままにいた。
それでも、とにかく接待の続きをと気を取り直す。
腰が抜けていた。
開いたままの障子から中庭が見える。
雨が強まっていた。
明日は嵐だという。
客人がマスカットを差し出した。
無様に尻餅をついたままに差し出された房に手を伸ばす。
何だこれ
「おいしいですよ」と熊の客人に薦められるままに黄緑色の粒を一つ口に放り込んだ。
舌でブドウの粒を転がしながら、奇妙な気持ちだけが確かである。
ずっと聞こえていたガマのげこげこがようやく遠ざかり消えた。
強まる雨音が屋根を叩いてる。
明日の嵐は間違いなさそうだった。
たとえ天気が最悪だろうとリアルな朝が恋しい。
夢なら覚めろ、、
目を見開いてそう強く念じながら、
マスカットの粒をがちと奥の歯で噛み潰した。
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