玉子の皿を取った時サキコはいいアイディアを思いついた。
目の前のペーパーナプキンを取ると隣の木下杢太郎に向いた。
「ペンある?」
14時を回り店内はがらんとしている。
カウンターの中には従業員が2人いた。
元老舗旅館って風の中年の板さんが包丁を手に夕方からのネタを仕込み、
ホール係の若い女の子がランチタイムに溜めた洗い物をこなしていた。
「なんで回転寿司なのよ」
サキコが聞いた時、木下杢太郎は穴子が食いたかったからだと言った。
木下杢太郎は会社の同僚だった。
7人だったサキコの同期入社は2年が経った今、3人になっていた。
その3人のうちの2人が日曜日の今日、地元の “寿司将軍” のカウンターに座っている。
その2人のうちの1人がこの場所にいない “もう1人” と結婚する。
そんな事をサキコは “そのうちの1人” 木下杢太郎から突然聞かされた。
残酷な今日の神が音もなく舞い降りた。
「異動?」
木下杢太郎は唇を突き出して悪戯に頷くとトロ鉄火巻を2ついっぺんに頬張った。
サキコが行き先を聞く前にもぐもぐとウルサンと言った。
サキコは何の魚か分からない白身を取った。
皿を寄せただけで箸もつけぬまま「どこそれ」と聞いた。
韓国支社だよ、最低3年っと言って木下杢太郎はやれやれと笑う。
腹も満たされると気だるい店内でぽつぽつと会話は減っていった。
サキコが昔話を振った時に 2人の声が重なって木下杢太郎が言葉を引っ込めた。
ミズハラは結婚しないの? 飲み込まれた質問がサキコにはわかった。
店を出るともわと蒸された大気が肌を焼いた。
お茶でも飲もうかのお定まりの誘いはなんとか断れた。
最後に何か慣れない冗談を飛ばして木下杢太郎はだらしない休日の背中で手を振った。
日曜の午後の平和な雑踏に溶けていった。
サキコは駅前の駐輪場まで歩き呆然を拭えぬままマンションへとペダルを漕いだ。
UV対策のサングラスの奥で “呆然” の理由を考える。
そしてじわと目の奥から嫌な信号が出そうになった時ぱちんと思考を停止した。
部屋に入るとそのままベランダまで進みドアを開け放つとその場に突っ伏した。
フラットな床に全体重を預けてみると無性な睡魔が胸の奥からこみ上げた。
あっという間に火照った脳は占拠された。
タイやヒラメの舞いが終わる。ぼわぼわとした音楽にのってそれらが舞台袖にはけてしまうとスポットライトはゆっくりと観覧席の少女のサキコに向いた。真直ぐな光線が床をつたい顔に当たると小さなサキコは視界を失った。白い光のちりちりとした熱さに大きいサキコの目が覚めた。
昨日付けてみた風鈴がちりりと鳴っていた。
レースのカーテンが風にめくれそこから漏れる太陽を顔面に浴びている。
全身汗びっしょりだった。
日なたからもぞもぞと脱出すると。
うつ伏せに寝返り横顔を絨毯にはり付けた。
織り成す繊維の小さな世界を見つめながら木下杢太郎に誘われてからの1週間を思い返す。
馬鹿げた時間を笑って嘆いてそのままシャワーに立った。
幾分さっぱりとした気持ちでバスルームを出ると残酷な今日の神はサキコの涙をどうしても見たいらしい。
念の為に無理矢理とった明日の有休をあざ笑うかのうようにビールは切れていた。
冷蔵庫にはただ納豆だけが1パックじっと鎮座している。
生暖かい風が部屋を抜け洗い髪を揺らし、ちりりと風鈴にも笑われた。
サキコはエコバックに財布だけ入れると乱暴にサンダルをつっかける。
濡れ髪で羽織ったシャツの襟を湿らせながら颯爽と部屋を出た。
夕方に入り際立つ虫の音が夏を思わせる。
駅への橋に差し掛かり方向を変えて土手に向かった。
川に沿って続くゆるいアールを進む。
数時間前に無心で走った橋からどんどん遠ざかって行った。
ほどなくして自転車を止めて土手を少し下りた。
しゃがんでみると目の前にはサキコのおおよそ理想的な夏の夕景があった。
1日が終わろうとして川の傍で人々はだらだらと無邪気だった。
野球、釣り、ジョギング、サイクリング、犬の散歩、
そんな向こうに水がゆったりと流れている。
そのまた向こうに似た様なだらだらとした別の無邪気が風景をつくる。
そしてその奥、向こうの土手を越えると駅があり繁華が広がっているはずだった。
2年前。
上京してサキコはこっち側を選んだ。
家賃が安いという理由だけで川のこっち側を選んだのだが2年後の今、
やわらかくなった夏の陽のオレンジな雰囲気の中で風に吹かれながら正直に思った。
「こっちで良かったな」
ごろと背中をつけて真上を仰ぐと上目に空が近い。
遮るものの何もないままにそこに空が一色広がっていた。
あっちとこっちでうとうとと揺れていた。
サキコの心が寄せては返し、行ったり来たりして、やがてすぅと目を閉じた。
まぶたの裏で空と地に直接挟まれてふわふわしていた。
何度目か、風が川の匂いを運んだ時サキコは今日2度目の短い夢を見始めた。
サキコは大きなナマズにしがみついて川面ぎりぎりを飛んでいる。方向は海。体をくねらせながらサキコとナマズはどんどん加速する。腹の下ですれすれの水が細かくしぶきを上げる頃、やがてナマズは長くのびる。にょろにょろと長い魚が近づく橋を飛び越えた時、欄干の間から人々が手を振っている。見知らぬ顔の所々に昔サキコが好きだった男達がいる。カレらはサキコを追いかける。群衆から抜け出して自転車をとばす。届くはずもないのにおぉいおぉいと手を振りながら河川敷をいつまでも追いかけている。
まくった腕を小さな蟻がよじ登ってサキコの意識は土手に戻ってきた。
夜に冷やされだした風が耳元に吹いた。
目を開けると空は淡い白水色だった。
もう闇の手前だった。
落日の瞬間を見逃したサキコに残酷な今日の神がほくそ笑む。
サキコは立ち上がった。
対岸で気の早い若者達が花火を鳴らす。
パンという遠くからの乾いた音がサキコの短い夏の開始を告げた。
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