「ぐもーにんぐもーにん」
お知らせさんが久しぶりに出現した。
ノックもせずにドアを開けると頼んでもいないのに「知らせ」てくれる。
今朝は英語の気分だったんだな、などと思いながら、まだ枕に突っ伏したままで部屋の外に耳をすましていた。
今回は「朝の訪れを」知らせたお知らせさんの木靴の音が軽快にリズムを刻んでいる。
ここここここここ
猛スピードで隣の部屋へ隣の部屋へと移動しているのだろうか、ルームメイトと一晩かけて完成させた「静寂」はレア者の登場によっていつもの朝より早めに雲散した。廊下の遥か遠くで木靴が床を蹴る音にじっと意識を向けながら再び部屋がしんとするのを待っている。そして、柄になく多分わくわくしていた。
えらい抽象的なんだよな
お知らせさんを聞いた者の身に降りかかると言われるジンクスは「とびきりのハッピーとささやかなアンラッキー」である。どうやら事もあろうに期待が膨らんでいた。不意に訪れた非日常の予感にかこつけて、出かけてみようかなどと思い始めている。生身の相手が不在のときめきは自分を抑制する言い訳が上手く見つからなかった。まるでアタリくじを引いた時のようで、手放しで喜んでいてもそれ程悪い未来が浮かんでこない。
まさか、たったのこんな気持ちがとびきりのハッピー?
いや、それともささやかなアンラッキーのはじまり?
気がつくと木靴の音は耳から消えていた。再び訪れるはずの静寂の代わりに早くも熱のこもり始めた蝉々の鳴き声が鼓膜に触れている。慌てて顔を上げた。やはり。お知らせさんがドアを閉め忘れていた。外の光が細く線となって部屋の闇にドアの輪郭を浮き出している。
痕跡を残すとは
お知らせさんも夏バテか、と思っている間にも程良く乾燥した人工の涼が外へとどんどん漏れている。もはやアンティークの域に達する我が部屋のエアコンが、就寝前から数時間かけておんおんと唸りながら除湿を施してくれた空気が惜しかった。
やれやれと全身の筋肉のスイッチをオンにしてゆく。未だ眠りの中の身体の隅々に微弱な電気を走らせた。チャージを待ちながらとりあえず目覚まし時計に手を伸ばす。針はいつも通りよく見えなかった。アラームを切る。
ベットから剥がすように探り探りに力を込めながら腹筋の要領で上半身を起こした。
くたびれたスプリングの上で比較的軋みの小さいポイントを辿りながらベットの縁に腰掛ける。ようやく視力は馴染んでいた。向かいではルームメイトが背中をこちらに向けて寝むっている。ベットの中央を広く開けて壁際にぴたりと収まっていた。微動だにしない。どうやら、お知らせさんの登場にも覚醒しなかったようだ。
運の悪い奴
ここでくかと鼻を鳴らして、もぞもぞと身じろぐのかなと一応しばらく待ってみる。が、筋書きのない現実はやはり大抵味気なくて、爆睡のルームメイトは音も無くじっと動かなかった。ばかに長い枕を心地良さそうにひしと抱いている。露出の肩口で小さなタトゥーが白い肌にはえていた。アジアの文字らしい。角張ったこの一つの文字に大層立派な意味があるのだといつかルームメイトはご満悦に教えてくれた。
私なら何を彫るだろう
洒落たなイイのが何も思い浮かばなくて答えを保留する。笑い声が空耳した。
だろうね
情けない思いのままベットから立ち上がる。床の散らかりを踏まぬようにそろそろとドアまで進んだ。廊下に首だけ出してみて外の明るみに一瞬目がくらむ。視力が戻って空はすっかり青かった。今日もご心配なく暑くなりそうである。ひとつ朝を吸い込んでからノブに手をかけた。蝶番なのかドアのどこかがみょうと短く鳴く。まるで猫の鳴き声を出しながらドアはカチャりと枠に収まった。
油を注すのは誰の仕事だ
そう思いながら室内でようやく蝉が止み光が闇。再び外をシャットアウトした部屋で急速に閉塞を実感した。自閉の湿度が足の先から染みてくる。昨日までの流れだとそのままベットへと逃がそうとする自我が今日は身を潜めていた。
この引きこもり空間に息の詰まる思いの前向きな健康メンタル。とりあえず出よう、といつもの「寝よう」から一文字変えさせたのは明らかにお知らせさん効果だった。
椅子の上に脱ぎ捨ててあったジャージを取り上げた。
足を通して裾を膝までまくる。
洗い済みのカゴを探った。
ティシャツを着替える。
タオルは一番お気に入りの薄橙の一枚を首に巻いた。
これからは畳んでタンスに入れますと決意してみると窓際で床置きのエアコンがぶぅんと唸り出す。
鈍感なサーモスタットがようやく感知して待機から運転に切り替わった。
震動が壁を伝いながら上昇した部屋の空気をゆっくりと吸い込んでは吐き出してゆく。
ルームメイトは動かなかった。
もはやベットと部屋の壁と例の枕とに融合している。
こみ上げる爆笑をこらえながら裸足のままシャワーサンダルをつっかけて部屋を出た。
涼気に慣れきってしまった身体を身構えさせる。
だが、夏の朝は予想外にやさしかった。
まだ夜を匂わせる低い温度の朝の風が前髪を跳ね上げて生え際を心地良く撫でてゆく。
思わず両腕を上げてみた。
ひとつ大きく伸びをしながら、猫の声で閉まるドアを背中に聞いて歩き出す。
寮は四棟がそれぞれひとつの庭を囲むように建っていた。四隅の踊り場から階上階下、それにそれぞれの棟へと行き来する。廊下を進みながら、今朝もやはり人の気配はなかった。盆を過ぎてちらほらと知った顔が戻ったものの、ほとんどの学生はまだ帰省したままか、あるいは短期留学に出ていた。地元出身者はほとんどいないし、夏休み中であってもバイトを必要とする程ひっ迫した学生などこの学校にはおそらくいない。
踊り場に入った。
エレベーターの脇で煌々と光る自販機を見て喉が乾く。部屋を出る時の「何か忘れた感」はこれであった。財布もない。部屋の冷蔵庫にはまだ自分用の水が残っていたはずだった。
取りに帰ろうか
自分に問うてみてあの部屋に今戻る事は満場一致で否決された。エレベーターを呼ぶ。電気の通いが一気に屋上まで届いてから、重厚なスライドドアの向こう側で重い腰を上げるように機械はごとごとと動き出した。
中庭にも誰一人いない。
ほぼ正方形の広場には芝生が一面に敷かれていた。座るのに丁度いい大きさの岩がいくつか点々と配置されているだけで何も無い。ここに踏み入るのは寮の新歓以来だった。一歩目でふわりとした土の弾力が心地良い。サンダルを脱いだ。裸足の裏にちくりと芝生が意外と固い。やがてそれもよくなった。
庭の中心に近づくほどにしんとした静けさが強まってゆく。
周囲を見回して、ほぼ中央で立ち止まるとそこはまるで真空だった。
風も音も無いまるで空っぽの場所である。
しゃがんでみると空気が変わった。
芝生の呼吸が湿潤な空気の層となって低位置で滞っている。
そんな事を想像してみて、マイナスイオンという言葉が一応浮かんでからすぐに消した。
説明を求めた自分を恥じる。
それが何なのかなどはさして重要な事ではない事を真っ先に知った。
周囲を見回すと三階建ての白壁が迫る。
圧迫ではなかった。
守られてる、と不思議と感じさせるそこはまるでシェルターなのであろう。
背中を芝生にべったりとつけてから、続けて後頭部まで地面にくっつけた。しばらくして腿裏に蟻がよじ登ろうとも構わない。耳の裏をクモが歩こうとも無視をした。首に巻いていたタオルを青空にかかげ丁寧に小さく畳んでから首の下に入れ直す。足を開き、腕を伸ばし、文字通りの大をつくってからまぶたを閉じた。
廊下ではわんわん聞こえていた蝉の声がぴたりと止んでいる。
窓のない回廊に比べて風は弱かった。
とくとくと身体を血が流れている。
心音が内側から耳の奥に響く頃、意識は芝生へとめりこんで、やがて深く寝むっていた。
周囲を建物に守られて寮の中庭は太陽の差し込みが遅い。
目を開いた時、南棟寄りの西棟の三階部分にようやく陽光がかかっていた。
そこからキラりと太陽が反射する。
笑い声を聞いた。
手をかざし反射を遮りながら身体を起こすと再び笑い声と光。
どうやら誰かが手鏡をこちらに向けていた。
背中を向ける。
すぐ傍で光の丸が芝生に揺れていた。
誘っている。
ためてから大袈裟に飛びついてやると光の丸があわてて退いた。
そしてけらけらと笑い声。
振り向いて見上げた西棟の三階の踊り場にアイツがいた。
「ちょっと待ってて」
よく通る声が無人の中庭を旋回する。
アイツは丸っこいラジカセを持って降りて来た。
変な奴。
ごそごそとセッティングをするアイツを見ていた。
おそらく、一階の廊下の掃除機用の電源をとっているのだろう、
ここがぎりぎりという感じで妙な位置からラジカセがこちらを向いている。
おもむろに懐かしいメロディが流れ出した。
ラジオ体操。
けらけらとアイツは笑った。
「どう一緒に」
とこちらにまた笑いかける。
黙っていると体操が始まった。
こちらを見たり空を見たりしながらアイツはカラダを動かしている。
おいっちにおいっちになどと言ってみたりしてはのびのびと躍動していた。
やってみようかな
そう思いながら私は半身だけ起こした姿勢を崩せずにいる。
そして、体操は終わった。
こちらを笑わそうとしたのだろうか、
終盤は妙な器械体操ちっくなのも取り入れてアイツは少し息を切らせている。
私は素直に笑えてたっけかな
今日はどこそこからお送りしましたー、、と伴奏が終わりラジオからシメが聞こえるとアイツは「おお」と慌てて電源を切りにラジカセに走って行った。
中庭に戻ってアイツは視線を外しながらゆっくりと私の方に歩みを向ける。
遠慮気味に私から二番目に近い岩で止まった。
丸っこいラジカセを下に置く。
岩に飛び乗った。
淡い色のタオルで額の辺りを軽く抑えてから長髪を結わき直す。
「ようやく」
アイツが口を開いた。
ここまで伸びましたとポニーテールを撫でながらごにょごにょと続けて少し自分で笑う。
照れてんの?
似合いますね、と私は言葉をのみ込んだ。
ちらと視線が交錯してそれぞれ少し笑ったのかもしれない。
すぐに静けさが充満した。
アイツは少しアゴを上げ宙に頷いている。
いつものようにリズムをとっていた。
西棟を照らす日なたが南棟の壁よりに近づいて二階と一階の間まで下がって来ている。
気温が上がってきていた。
「裸足」
アイツは私の足下を指差して笑顔で私を見据えてくる。
私は無言で足を上げてみた。
「来週から合宿なんす」
知ってる、言葉は再びのみ込まれる。
シュートポーズでバスケですと見せられた。
それも知ってる。
「今夜」
こんや、そう口の中でアイツを繰り返す。
「花火やりませんか」
子供達が来てんです、とアイツはそこまで一気に続けた。
こどもいるんですか?
私は初めて声を出す。
ずいぶん大きい声が出た。
「え あ おいっこ、甥っ子が二人」
ですよねー、という妙な返しはもう戻せない。
「携帯、今ある?」
あ、部屋
「じゃあ番号言って」
私はなんだか放心のままに、
間違えないように自分のナンバーを読み上げた。
そう。
読み上げたのだった。
アイツはワンコールして電話を閉じる。
「番号残しました」
では詳細は午後にでも、そう言ってアイツはその場から消えた。
私はなんとなく丸っこいラジカセばかりを見送ってから、
なんだかふわふわとした心地で立ち上がる。
シャワーサンダルを丁寧に履いた。
いつの間にか蝉の声がわんわんと耳に鳴っている。
今朝はお知らせさんが現れた。
言い伝えに寄ればとびきりのハッピーかささやかなアンラッキーが訪れるらしい。
ん
両方か?
ハッピーの後にアンラッキー
どっちだ?
どっちか?
伝承は曖昧だった。
いずれにせよ、、
どんと来なさい
芝生を出ると急に喉が渇く。
屋内で再びサンダルを脱いでみた。
揚々と部屋を目指す。
廊下の乾いたコンクリがぺたりと足の裏に吸い付いてきた。
グリップ。
無人の廊下を徐々にダッシュした。
アスリート気分で階段を駆け上がる。
スポーツニュースの世陸を思い出しては力強く膝を上げた。
ワクワクと波乱の予感の日暮れまでに、
洗濯して掃除して、
できればレポートを一本下書きしてやろうと私は決意する。
踊り場から廊下に走り出ると強い風がぐんと背中を押すのだった。
実はその時。
たまたま、
この夏一番の強風が遥か上空から寮へと吹き下ろしていた。
すでに無人の中庭へと風は抜ける。
そして、
そこにあった何もかもが空へと捲き上げられた。
風に乗った忘れじのタオルが一枚、空に踊る。
寮の上空で最後の突風に乗ると、
夏空の青色に吸い込まれるようにフレッシュカラーは彼方へと跡形もなく消えていったのだった。
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