「とーせんぼーとーせんぼー」
そう歌いながら、
どこかルンルンとした雰囲気で近づいて来たのは「平べったいモノ」である。
最寄りのバス停への通勤途中だった。その平べったいモノはどこからともなくひょこひょこと現れると当然のように行く手に立ちはだかった。道理で今朝はちちちちとさえずる鳥達の数が多いはずである。
ようやく毎朝の光景の変化に気がついたのはマンションを出てからバス通りに入りしばらく歩いてからだった。道路端にずらりと並んでいたカラーコーンが全て撤去されている。どうやら、夏中ちんたらと続いていた舗装工事が完了したのだった。毎朝この時間この場所で目にする世界からくすんだ赤い三角の隊列が無くなると、ただそれだけで空間が広くすっきりと感じられる。なんだかそれだけで朝から気分は高ぶり爽快なのだった。
「それだけ?」
ん、ダレ?
「今夜、恋人に逢うじゃないか」
。。確かに仕事の後で待ち合わせている。
上々な気分のワケは道路工事の終了プラス恋人とのデートなのだろうと素直に頭で思い直してみた。
「結婚」の二文字が初めてその恋人との電話に登場したのは昨晩である。
そろそろかねと一応の意見のまとまりのまま終話した。
縁石の内側。
まだ植えたばかりの低い街路樹の間に彼岸花が一輪揺れていた。早朝のやや色味に欠ける世界で上品な赤が一点映えている。
キミ?
すらりと伸びる花に近づいた。
見せてあげますか
十時間後の恋人を想って携帯に一つ「キレイ」を切り撮って保存する。下を向くと髪が耳からこぼれて頬にさわさわと触れた。カットしたてでまだ鋭い毛の先がサワサワとこそばゆい。切り過ぎたけど「いいじゃん」と恋人が言うからそれだけで小さな勇気がわいていた。ガードレールの向こうでは敷かれたてのアスファルトがどこまでも滑らかである。まるで焼き立てのクッキーだった。若々しい道路が浸透した昨晩をハツラツと放出してはひっそりと朝に溶かしている。
なんだか其処彼処で開始の儀式が粛々と行われていた。
だから朝が好き
行く先でようやく出始めた太陽を薄曇りの空が透かしている。
心地良い輝度で程良く眩しかった。
スタートという雰囲気が毎朝飽きる事なく背中を押す。
今日も一日がんばりましょう
ふつふつとそんな気にさせてくれるのだった。
安上がりである。。
一人ごちているとその歌声は聞こえてくるのだった。
目の前の平べったいモノとの距離は三メートル。
反復横跳びな感じで小さく左右に跳ねながら「通せんぼ」と歌うように繰り返した。平べったいモノは白なんだけど薄いピンクのようなオレンジのような曖昧な体色である。見たところの質感はやわらかそうなおいしそうな、なんとなく「はんぺん」だった。サイズは噂話から推測するよりもやや大き目でいて想像よりもかなり厚い。子供のような声にアンバランスな目つきの悪さが妙な親しみをおぼえさせた。一体何をやらかしてくれるのやら予測不可能であったが、どうやらさほどの害はなさそうである。
なにさ
二分ほど様子を見ていた。が、はんぺんのお化け(のこども)に文字通り通せんぼをされている、という状況は打破されない。とりあえずこっちからラチを明けようとやや強気な声を出してみた。すると、平べったいモノはびくとして跳ねるのをストップする。ちょぼちょぼと口はすぼまり、やがて歌のボリュームも下がっていくのだった。
そして平べったいモノは黙ったままじっとこっちを見上げている。
通るから
向かう先、バス停の方を指差してもう一度言ってみた。
すると、平べったいモノも口を開く。
「つれてけよ」
無理だよこれから会社だもの
すぐにそう返すと平べったいモノはあからさまにしょんぼりとした。
アー アー アー
鳴き声に振り返る。
カラスが一羽、背後三メートルに降り立った。
周囲でさえずっていた小鳥が固唾を飲んで沈黙する。
黒い大きな鳥は二度三度と再び鳴き声をあげながら、
ぴょんぴょんとその太い脚で地面を蹴るとしゅるしゅると小男に姿を変えた。
そして流暢な言葉が口から溢れ出す。
「そいつ、オレ様が連れて行ってもいいのかい?」
背中、三メートル後ろの平べったいモノをアゴで差して言った。
両手はチョッキのような上着のポケットに入れられている。
黙っていた。
平べったいモノを振り返る。
じっとこちらの態度に注目していた。
小鳥達のさえずりがやんでから完全な静寂が空間を一気に圧縮してゆく。
小男に視線を戻すとこちらもまたジャッジするように見極めるようにじいと観察の眼を向けていた。
前後を奇妙なお二方に挟まれて萎縮しそうな自分を体の中から鼓舞してみる。
この場の一切を投げやってしまうイメージがどんどん湧いて来るので必至にそれらを次々と捨てていった。
ぐつぐつと忙しい内部とは裏腹に外は冷静である。
数年振りにむき出しっ放した両耳を朝の少し強い風が撫でていた。
風は昨日より更に冷たくてより澄んで感じる。
昨日の朝は一昨日よりもそう感じた。
そして、一昨日のはその前の朝の風よりも。
「季節は朝に変化する」
いつかのどこかの誰かの言葉が思い出され「それ」をふふふと心地良く体感しながら、
ようやく心の内も冷静だった。
とつとつとカラスっぽく小男は跳ねながら平べったいモノへと近づいた。
さぁ行くかとその小さな白い手を引こうとした時、駆け寄って脇に手を入れる。
タッチの差でひょいと平べったいモノを持ち上げてやった。
小鳥が一羽ちちと鳴く。
すぐとなり、腰の高さで小男が口をあんぐりと開けながらしばらく呆然を見せていた。
辺りの空気が緩まってゆく。
やがて、ふうんという表情を見せてから小男はしゅるしゅると大ガラスへと還っていった。
ビルの向こうに退散するカラスを見送りながら平べったいモノは抱き上げた手の中で心地よさそうに目を閉じた。小さな口がニンマリをつくってから、やがて目鼻口がその四角い顔から消えてゆく。役目を終えたように平べったいモノから表情が消え手足が消えそして厚みが消えていった。あれよあれよと平べったいモノは縮み、何もかもが消えてしまうと今度はその表面にじんわりと文字やら枠やらが細く浮き上がる。その時、大型特有の低いエンジン音を遠くに聞いた。
バス?
振り返る。
案の定、いつもはバス停から見る光景、遥か後方の交差点をいつもの通勤バスが左折してくるのが見えた。
やば
向き直して後ろ足に力を込める。
途端に悪戯な向かい風が強く前傾の体を押し戻そうとした。
思わず眼を閉じる。
手の中に残った薄い紙がはためいていた。
飛ばされぬよう破れぬように慎重に指に力をこめながら風をいなす。
行かないと
まぶたを上げた。
すっかり姿を変えた平べったいモノをくるくると無造作に細くする。
かたく搾りながら最後に左上に文字を読んだ。
婚 姻 届 と品よく縁遠い三文字が並んでいる。
巻き終えながら、硬直していた。
風が胸に抜けてゆく。
フアァン
バスのクラクションが遠くから背中を押した。初めて触れる婚姻届を丁寧にトートバックの隅に差す。そこで強風はやんだ。よしと体勢を立て直す。バックを背に回し右手で支えると、ようやく一歩を踏み出せた。膝を高く上げて、風を蹴散らして、ただ一心にバス停を目指す。
加速しながら恋人を想っていた。
朝の風が冷やかすように顔にぶつかってはやさしく鼻先を撫でて眉を撫でる。
余計に息が切れてるしどんどん火照ってゆくのを慣れない朝からのダッシュの所為にして、追ってくるバスよりも先にバス停にゴールして、間もなく、颯爽とステップを登るいつもの自分を想像した。
朝の陽に向かって走っている。
なんだかまるでドラマだった。
ならば便乗して再び恋人を遠慮なく甘く想う。
どんどん想いながら、
無人の通りをより明るい方へとダッシュしていた。
好きだと言ってくれた新しいヘアスタイル。
疾走に乱れる髪にそっと触れるとますます増えた鳥達がちちちちちといい声でどうやら祝福した。
背中のトートを前に回して差した用紙の細い筒に触れる。
早く逢いたい
戸惑いも迷いもないままにるんるんと腕を振っていた。
衝動と高揚に全身を任せて委ねて高く跳ねる。
大きなパワーと明るさに引っ張られるように、
どんどんどんどんどんどん
先へ先へとますますスピードは上がっていくのだった。
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