「影に入るといい」
雲にも届かんのっぽが口を開いた。
ただのエントランスのオブジェだと思っていたので仰天する。
その口調は穏やかだったが、どこか寂しげであった。
のっぽの声に周囲の空気がびりりと揺れる。
これまで体感した事のない重低音が地面に到達し拡散した。
雷
打たれた事はないけどなんとなくそんな想像をしながら、危うくデートの真っ最中に尻餅をつくところである。つまり、ついていない自分にほっとしていた。ツレをうかがうと一見全く動じていない。内心は、わからなかった。度胸が座っているのか鈍感なのか。。
「どうしよっか」
程良く甘えを足してツレが明るく言った。このタイミングとしては悪くない声色である。夏の始めに意気投合したニューパートナーは行動や反応に冷静と鈍感がバランスよく内在する人だった。
今はツレに適当に相槌を打ってのっぽの事を考える。
影がどうのと言っていた。
見上げるとのっぽは直立のままで、再び駅前の繁華の方角をじっと見下ろしている。
かげ、
はて?
「ここらで食べちゃいますか」
ツレがコンビニ袋をくいくいと揺らした。人混み歩きに小疲労を感じ始めていたので、いいタイミングの提案にふんふんと賛同する。よし、とテキパキと流れから逸れて歩くツレにひょこひょこと従った。
尻を街路のプランタに乗せると、ジーンズ越しにもじっと重い「冷」が伝わって、あごの先を「もう完全に夏じゃない」風がかすめて行く。ここ数日で気温をぐっと下げた空気は澄んでいた。足下には小さな落葉。ちょうど新しい月の始まりとともに一番好きな季節が到来していた。
このところ、低い陽射しが厳しく照りつけるような日が続いていたのだが、今日は一転してベールのように薄い雲が空を覆っている。曖昧で意味深で人々をやきもきと不安にさせる好きな空だった。
冴えているハズの頭で今がいつなのかを問答する。
朝、
夜か?
ツレにすぐに聞くようなつまらない事は断固しない。
何ひとつ急いでなどないし。。
いや朝
二週間目の白夜が時間の感覚を完全に麻痺させていた。弱く吹抜ける風は程良く冷えている。早朝のような深夜のような、そんな風が薄着の隙をぬっては素肌にやわらかく触れてきた。明日が二ケタの月の初日だから、暦の上では今日で今年の白夜が終わる。でも「かもしれない」だった。突然地軸がずれたようにこの星では明日どうなるかなんて、もはや誰にもわからない。
「これ旨いよ」
ツレが新発売のパニーノを差し出した。
黙って受け取って代わりにフルーツティのペットボトルを渡す。
明日
「ん?」
声が漏れてしまった。
別に、と言ってからパニーノを一口齧る。
(明日、、どうなるかなんてわからないけど。。)
「なーに?」
ニヤニヤとツレはもう一言だけ確認すると、
それ以上しつこくせずに目の前の人の流れをじっと観察した。
長い祭りが終わり参列の群衆が代々木公園を後にしている。
駅の方へとだらだらと進む様はまるで仮装パレードのようで飽きさせなかった。
天頂から空が晴れ始めている。
白月がひっそりと顔を出しているがこのエリアで誰一人気づいていなかった。
(ぉお)
今度は声を漏らさない。
月の膨らみ加減が右手のパニーノそっくりだった。
視線。
ツレの目が「まだかな」と乞いている。
よしよし。
最後にもう一口、頭上の月の形に頬張ってからツレの手に返す。
ツレは気づくだろうか。。
音もなく現れている神秘の白月にも、
その形が手の中のパニーノなのにも、
残された噛み跡まで月の形な事にも、
それから、
たとえ明日がどうだろうと、
二人は二人なんだよ、
と、
(早よ気づけ)
想いながらペットの栓に力を込めた。
誰よりも華奢なくせにツレの握力は人一倍。
よいっと力を込めなきゃいけないのがなんだか頼もしくて嬉しくて楽しかった。
人々は、全員が必ずのっぽの股下を通り抜けて帰って行く。
依然、のっぽは変わらぬ姿勢で繁華をじっと見下ろしていた。
パルコをタワレコを文化村をセンター街をスクランブル交差点を、
そこで溢れる人々を眺めては何を思うのですか。。
原宿も新宿もあるいは池袋までじっと見据えて何を憂いでいるのでしょうか。。
見上げるのっぽは黙っている。
口の中のイタリアンなチーズ味をブリティッシュなフルーツティで一掃した。
するりと疲れがおりてゆく。
光だらけのこの街の「影」っていったいどこですか?
学生のグループが通り過ぎた。
ショウかライブの参加者なのだろう、
なんとなく揃いの装いである。
声のデカい男子がさみぃさみぃといつまでもはしゃいでいた。
ツレが何かを言いかけて、ヤメる。
その口にパニーノを運んだ。
さみぃと言ってみる。
空いた左手をそっと握ってみると、
ツレから熱が伝わって同時にこっちの熱が伝わって、
じっと座って冷え始めた二人がだんだんにほっこりだった。
ツレの横顔。
いつも通り、
しっとりと大きな黒目に吸い込まれるのだった。
人肌のフルーツティがすぐに舌恋しくてペットボトルを口に寄せる。
そしてようやくツレが大声を出した。
「あ」
見てよこれ、誇らしく細い右腕がすらりと上げられて、
ようやくパニーノが月の傍らに同じ向きで掲げられる。
あんまりニッコリと微笑み過ぎるから、
ばーかと繋いだ手に力を込めた。
ぼんやりと見ていると月に黄みがかかってゆく。
え、じゃさっきから夜?
気がつくと、
我先にと夜が長くなる季節を先取って、
草葉より秋の虫がりぃんりぃんと聞き心地良く鳴いていた。
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