「。。この夏一番の暑さです」
朝起きてからこの文句はこれで四度目だった。
「どこそこでは」とそこから続いたであろう前の部分は今回も聞き逃す。
いったいどこでだ?
しばらく前からテレビらしき音声が耳に入ってきていた。
で、ここはどこだ?
線路が見える。
その向こうは森だった。
プラットホームにいる。
六人掛けのベンチが背中合わせで二脚ありその片方の端に座っていた。
特有の低い音質で斜め後ろ逆端からニュースが聞こえている。
右肩越しに様子をうかがうと大きな体躯がうつらうつらと船を漕いでいた。
どうやら携帯のワンセグで放送を受信しながら寝むってしまったようである。
バッテリーがもったいないなぁ
そんな事を思いながら前に向きかえるのだが耳はすっかりくっ付いていた。
もう離れない。
音だけだとこうも情報量が少ないのかとテレビにやきもきしていた。
画面を覗きに行きたいと駆られる衝動を抑えながら両の耳をなるたけスマす。
意識して蝉時雨からデジタルの波だけを選り分けていると、
列車が予告なくホームに滑り込んで来た。
減速する気配がないのでそれが快速である事がわかる。
この駅にはアナウンスというものがなかった。
車両はどんどん加速してとこんとこんとスピードの割に静かに走り抜ける。
巻き起こる暴風が束の間に両の耳からセミとニュースを吹き飛ばした。
ステンレスのボディが視界を横切りながら、
決まった角度に入ると木漏れの太陽をちかちかとそれぞれ鈍く反射してゆく。
最高速度となった最後の車両が走り去りながらこの場の空気も引っ張って行った。
風と共に音の波も全て持っていかれた、息継ぎのような刹那の静寂。
無の中でからっぽの車掌室がどんどん小さくなっていった。
やがてただの点となり消えてしまうと線路だけが真直ぐに残っている。
ぼんやりと、まるで台風一過の光景を眺めながら、
止めていた息を真空に吐き出すと、まず真上から油蝉がじいじいと喚き出した。
遅れてしゃあしゃあ、すぐにみんみんと続いて音のレイヤーがかぶさってすっかり夏の元の空間である。
文字通りの熱唱が木々に囲まれたこの駅全体に降り注いで耳奥を満たした。
暑苦しいはずの音のシャワーは不思議と脳の温度をぴくりと下げる。
例のテレビの音声が再び耳に届いた。
地味な声のアナウンサーが別れを告げている。
「ではこの後も引き続き。。」
ニュースが終わりどうやら高校野球の中継に切り替わるとノイズが入りだした。
ちらと後ろに目をやると丸い背中がいっそう丸まって安息に上下している。
熟睡に入っていた。
そして、ようやく電池が切れたのだろう。
聞こえていたアルプス席の応援ソングがぷつりと途絶えるのだった。
今夏最高気温、、少なくともここではないな
よく冷えた、とまでは言えないが心地良い風が時々吹き下ろしてくる。
昨日より過ごしやすい気がしていた。
昨日?。。どこにいた
思い出そうとしてやめる。
見上げると周囲の大木から枝が行儀よくせり出して見事に駅舎を覆っていた。
まったく屋根のない駅なんて初めてである。
いったいここはどこなんだ
ベンチを立った。
回り込んでついでにワンセグの奴を見てから行く。
グリズリーだった。
メス特有の寝臭が発散され始めている。
一層眠りは深かった。
だらりと下ろされた右腕の先で鋭い爪に携帯電話が引っ掛かっている。
案の定、電池が切れて生気が失せていた。
まるで抜け殻。
嗅覚の範囲をおおよそ計算し距離をとりながら半円で移動しながら珍獣を観察した。
生まれて初めて生で見る灰色熊である。
スリーピングモンスターはふごと不意に大きな寝息をあげるので、その度に息をのまされては寿命が縮んだ。
肩の辺りにわずかに冬毛が残っている。
針金のような長い銀の毛を記念に一本拝借したいという衝動にかられながらもお身体を大事にその場を離れ、ホームを歩き出した。
そろそろ各駅停車が来そうな気がする
先の見えないプラットホームを進む。
これまで列車は決まった方向にしか走っていなかった。
見通しは良い。
屋根がないので柱もなく電灯も極端に少なかった。
例のベンチが二脚づつ背中合わせでぽつりぽつりと中央に配置されているだけである。
表示板も時刻表も時計も広告も無かった。
向かって右、グリズリーの座っていた側の線路は荒れている。
表面まで錆びたレールの隙間からは長い雑草が生え出しており、
所々のシロツメクサの群生ではシジミチョウがひらひらと舞っていた。
もう何年も使われていないのかもしれない。
線路が無ければ、まるでのっぺりと馬鹿に長くて分厚い「石板」の上をただ歩いている、そんな感じだった。
太陽はほぼ南中にある。
時折の木漏れ日はぎらぎらと厳しかった。
あるいはこの森のすぐ外では最高気温が記録されているのかもしれない。
視線を上に向けているとすいとトンボが真直ぐに追い越していった。
衝動のままに揚々と追いかける。
切る風が心地良かった。
トンボは意図してか振り切ろうともせず追いつかせようともせず、
どうやら遊ばれてるなと気づいてもなお、獣心が小さな昆虫への好奇に抗えない。
行楽な調子の高音を聞いた。
微かな疲労とともに追跡にもそろそろ飽きて来た頃、警笛のする方に視線を向けるとモンキートレインがゆっくりと近づいている。
よく見ると、
先程、快速列車の通り過ぎた左側の線路の間にもう一本線路が引かれていた。
その一段と細く狭い線路の上をミニ鉄道がカタカタとこちらに向かって進んでくる。
先頭の車両にはきちんと猿らしき者が股がっていた。
二メートルの距離で猿が言った。
「桃源郷に行きたがってるのはお前か」
正式な運転手なのだろう、
ミニサイズの制服にきちんと身を包んでいる。
ジャケットの胸と帽子のデコの部分には快速列車に記されていたものと同じロゴマークが刺繍されていた。
すれ違いざまに猿の運転手に頷いてみる。
「お前、まだ小熊じゃねーか」
顔を後ろに向けながら猿の運転手が言った。
方向を転換する。
鉄道に並走した。
それ、停めてくれよ
「こんなとこでは停められん」
猿の運転手が叫ぶように言った。
「小熊のくせにお前、桃源郷を知ってんのか」
仕方なく今来た方向に早歩きで戻っている。
マレーグマを知らないのか
運転手はしばらくこっちをじろじろと観察してから言った。
「あやにく」
アヤニク?
トンボに夢中になっている間にかなり来てしまったのかもしれない。
ワンセグのグリズリーはまだ全然見えなかった。
「お前、それで大人なのか?」
で、桃源郷に行くにはどうすればいい
猿の運転手の問いには応えずに逆に聞き返した。
「列車に乗るしかない」
あの列車か、、どう乗ればいい
超スピードで過ぎて行った列車を思い出す。
「アレではない、、見ろ」
猿の運転手は振り向いて後方を指差した。
ホームから降りる。
線路の遥か先を見ると薄ボンヤリとピンク色で霧がかっていた。
「めったには停まらない つまり、いつか必ず停まる」
猿の運転手を見るとじっとこちらを見据えている。
「場所はここで合っている、方向も今お前は知った、あとは運良くソレが来れば、、ソレに乗るだけだよ」
猿の運転手はそう言ってから、危ねえから早く上がれと促した。
もう一度しばらく桃源郷の方向を見てから黙って石板をよじ登った。
モンキートレインを追いかける。
スピードにのらない。
四つ足にして駆けた。
汗が出る。
ようやく猿の運転手の隣につけた。
切れた息で声が出せない。
猿の運転手はギアをカタンと上げた。
鉄道が加速を開始する直前、
猿の運転手がこちらを向いてサムアップを向けて笑みを投げる。
「ぐっとらっく」
結構なスピードでモンキートレインはその場をあとにした。
息を整えながら桃源郷に向けて歩みを再開している。
なんとなくの確信を得て足取りは軽かった。
不意に蝉の鳴き声が止むので、線路を振り返ると遠くにライトが一つ。
予想よりも早めに風向きが変わりどうやら機を迎えた。
これまでとは逆、桃源郷の方に向かう列車が入ってくる。
そして、どうやらこの駅で停まりそうだった。
この長いホームのどこに停まるのだろうか
一瞬焦り、すぐに考えるのをヤメる。
足を止めた。
「運良く来ればあとはソレに乗るだけ」
猿の運転手の言葉を思い出す。
両の掌に少し汗をかいていた。
地面に手をつける。
四つ足になると少し落ち着いた。
乾いたコンクリートに汗で手の跡がくっきりとつく。
嫌いな形だった。
桃源郷の方を見る。
うすぼんやりとした桃色の霞が幾分濃さを増しているように見えた。
近い。
ふぁんと警笛がひとつ鳴った。
ゆっくりとライトの光が大きくなっている。
列車はもうそこまで来ていた。
ここに停まる。
未だ見ぬ場所への期待と不安から来るのはわくわくどきどきとする「いい高揚」だったが、なんだかそれをほぐしたくて四つ足でうろうろ歩き回りたいという衝動をなんとか抑えていた。
桃源郷はそこにあるのか
背後に列車の接近を感じながらこれからの行先に目を細める。
あ
釜爺
猿の運転手は最後に千と千尋を引用した。
あいつ
一つすっきりと和んでから、再び背筋をすっと伸ばす。
遥かなる旅への第一歩となるはずだった。
間もなくソレが到着する。
駅がざわつき始めていた。
枝がズレ動き太陽が降り注ぐ。
懐かしい友を迎えるように空間がじわじわと熱を帯びていた。
最後の警笛に呼ばれ列車に対面する。
あるいはこの夏一番の暑さと駅の熱、
それにこみ上げるものが相まって、
また一層に手の平に汗がじわじわとたまるのだった。
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