「スピードをあげてくれ」
それは乗客であるこっちのセリフだった。
急いでいるのかと聞かれたので若干曖昧に応えてみるとそんな返しを頂戴する。
久々に出口の見えぬ「ちぐはぐ」の中に身を浸していた。
運転手がもともと何なのか、
人間なのかどうか、、
やはりこの時季はタクシーに乗る際に確かめるべきである。
九年前に赴任したこの惑星(ほし)では実に順当に乾湿寒暖の変化が巡ってきた。そしてどうやら、現住のこの国では彩景の移り変わりが特にハッキリとしている。ここでは特徴の濃い節目が三ヶ月毎に訪れた。広く「季節」と言われている。その季節の合間合間に人間は出稼ぐのだった。そこに老若男女の限り無し。それどころか、昨今ではこの世に生を受けた八百万(やおよろず)のモノ、何もかもが成人に化けては働こうとするのが流行のようだった。なぜ皆働きたがるのか。今日(こんにち)までの我々の調査によれば、それは「季節」を人並みに過ごしたいが為(ため)らしかった。では「人並み」とは何か、、それは未だ調査中の事項である。
「オキャッさん、オキャッさんっ」
お客さん、と普通に言えないというのはサービス業としていかがなものか、、
運転手の呼びかけには聞こえぬ振りをしてドアに身を寄せた。
窓は閉めたままで外を見やる。
盛夏らしくすっきりとした気持ちのよい青空の下、と予報ではそんなはずだった。
それなのに視界の先の景色は曇寄りとしていてどこまでもグレイなのである。
「オキャッさん、オキャッさんっ、、きいてる?」
え、 ぁあ。聞いてます聞いてます
バイク便が一瞬で我々のタクシーを追い抜いて行った。
「オキャッさんもムクチだねぇ」
前を見ると先の信号が黄色から赤に変わる。
バイク便はぎりぎりアウトで交差点をやりすごして走り去った。
リスクは癖になる。
「ヤマトナ、デシコがワタシのタイプ」
切るとこが違うでしょ、心でそうやさしく正してやった。
この上なくさり気なく、嫌味なく、、と寸前のイメージではそう、
で実際は、なでしこっ、と頭蓋の内部で絶叫する。
「オキャッさんもか」
空っぽの笑みをつくって運転手に向けていた。
ここに来てから身に付いてしまった悪癖である。
まったく屈託が無い、でもどうも苦手という相手に対した時に使う気もないのに自然と出ていた。
こういうタイプは意外と多い。
なのでだろう、テキパキと顔の筋肉は対応した。
この運転手は屈託なくその教えの全てを吸収したのであろう。
もはや、目の前の当人よりも師匠だか先輩だか指導した元、教育者を蔑み始めていた。
そして、運転手に対して励ましを含んだ軽い同情が芽生え出している。
「カードつかえましょう、、しってるカード?」
まだ全然目的地ではなかった。
走っている。
いや たぶん、現金で
「でも、カードはクレジットのほうがべんり」
はあ
そろそろ車内に渦巻く「ちぐはぐ」が目視出来そうだった。
鞄のポケットの中へと意識が向いて、
一応、財布の中のカードを頭で確認している自分にウンザリする。
細く長く息を吐き出した。
ふと横を見ると、車窓の景色が消えていた。
トンネルにでも入ったのだろうか
座席の中央へと尻を滑らせて両手を運転席と助手席のシートにかける。
ワイパーは動きっぱなしだった。
このタクシーに乗込んだ直後からずっとである。
背中を離し身を乗り出した。
タクシーの行く先を見ようとするのだがその手前の動きを追ってしまう。
ワイパーのブレードがどこまでも規則正しくフロントガラスで左右に揺れていた。
ガラスの表面には拭うべき雨などないのに微かな摩擦音がきゆきゆと車内にも届いている。
「あ ああ、わかりました」
運転手がつぶやくのと同時にタクシーはそろそろと減速を開始した。
何がですか、シートの間から顔を出して聞いてみる。初めて運転手に普通のタイミングで反応を見せたのだが、それがきちんと声になったのかが定かではなかった。急に脱力感が波となって全身をすっぽりとのみ込んだ。眠気のような成分の薄い膜に包まれだしている。全身はじんわりとシビれていた。抗わずにシートに背中を預けてゆく。車と一体化してゆく感覚でめりめりと全身がシートに埋まってゆくのだった。失いそうな意識の縁でまどろんでいると、不意にドアが開いたようである。惰性を終えてタクシーは停車していた。まるでここでガソリンをぴたりと残らず使い果たしたかのようにしんと動機は止まっている。全開の四枚のドアから霧のようなものが入り込んで、停滞していた車内の空気とゆっくりと混ざり始めていた。どうしようもなくまぶたが閉じてゆく。ゆっくりとせばまる視界の隙間で左右から二人の客が同時にタクシーに乗込んできた。茶色くて大きな大きな二人を感じながら、深みへとハマってゆく。それが、自分の意識の深層なのか、タクシーの中なのか、あるいは、ちぐはぐな運転手の意識の奥なのか分からないが、とにかく深い深い部分へと落下した。
白黒ならぬ白茶。目が覚めた時、視界はそんなモノトーンだった。
タクシーは停まっている。
車内車外に真新しさはなくどうやら昏睡の最後の記憶のままだった。
後部座席の真ん中に座っている。
左右を見知らぬ客に挟まれていた。
気がつくとまじまじと二人を見ている。
遠慮という感覚を失っていた。
失ったというよりも備わっているハズの場所にない。
まるで意識が子供へと退行したような感覚にとらわれていた。
気を沈めてから冷静に自己を確認する。
自分はまだきちんと成人であった、が同時に懐かしいような無邪気な好奇心が止め処なく溢れていた。
夢。
なんとなくそこに気分を落ち着けてからそれ以上深く考える事をやめた。
双子なのだろうか二人の紳士は容姿がそっくりである。ネクタイの柄と膝の上のアタッシュケースの茶の配色の別、ただそれだけしか違いを見つけられずに、それでも二人が同一人物、コピーなのではないと決定した。夢だから、決めつけてもいいはずである、そう自分に言い聞かせてみる。
スーツはずいぶんと古い型だがきちんと着こなし、二人によく馴染んでいた。
口髭が清潔に整えられている。
パイプなどよく似合いそうだなと思いながら目先を前に向けると運転手がいなかった。
あれ
運転手さんはとどちらにともなく思わず口に出る。
二人の紳士は同時にパナマハットに右手をあてるとそのままアタッシュケースの上に置いた。
帽子の下は当然のごとくロマンスグレーである。
「樹液でも吸いに行ったのでしょう」
樹液?
「あの人はもともと蝉ですから」
あの人は蝉でしたか、、では、少し待ちましょうか
「待っても無駄です もう戻ってこない」
「次はアナタの番です」
左右から同時に言われ返すべき言葉を失った。
いや
まあいいかどうせ夢だし
助手席と運転席の間に足を入れる。そこかしこに頭や肩をぶつけながらなんとかハンドルを握り背中をシートにつけると、胸ポケットで携帯が着信した。久々の旧知の学友からである。
ちょっと失礼します
バックミラーを調整し後部座席の二人に会釈した。
二人の客は右手の平を返すとやさしい笑みを口元に見せる。
では
電話を開いた。
友とお互いの近況を語り合い、仕事の事、家族の事、昨今の社会情勢、一連のトピックを流れの通りに続けた後、いよいよ盛り上りクラスメイトの話に入った直後に後部座席から嘆息が漏れるのが耳に入る。やや声のトーンを抑え意識を半分だけ後ろにやった。どうやら「やれやれ」と二人が見合わせている。
ちょっと仕事中だから
妙な恥ずかしさを感じて受話器の友に別れを告げた。
ん、これ仕事中なのか?
ひっかかったが必ずの再会を約束して電話を切った。
ポケットに電話を戻しながらキーをエンジンに差し込む。
ん
いつの間に手の中にこの車の鍵が入っていたのか、
そのままキーを回すとどるんとエンジンが車体を震わせた。
燃料は満タンである。
初めて座るはずの運転席なのにしっくりと妙に居心地がよかった。
タクシーを運転する、
そんな普段なんとなく手の届きそうでかなわない夢の出来事に高揚しだしている。
では、と覗くバックミラーの中に二人の紳士はいなかった。
映る後部座席いっぱいに大きな茶色が二匹。
実際の熊と言うよりもクマ、まるで着ぐるみのようだった。
毛がどうもフェイクっぽいのだが、それでも、確かに息づく獣なのである。
圧倒的な迫力がどんと深くシートにめり込んでいた。
二匹はそろって目を閉じている。
無言のまま太い両腕を胸の前で組んでいた。
目を開けてくれるなよ
そう願いながらも「行く先だけは教えてくれないと」とちぐはぐが車内に漂い出す。
とりあえずそろりそろりとタクシーを発車させながら満を持して声をかけた。
オキャッさん、、
ん あれ
オキャッさん、、ど どちらまで
どことも知れない森の中のような道である。
ゆっくりと進みながら、
じょじょに大きくなる蝉の鳴き声が、
この状況をどことなく高らかにあざ笑っていた。
PR