「ゃめらなのかい」
不意に「声」が隅っこで響いたので止めていた息を鼻から抜いた。それが覗いている画面の隅なのかこの部屋の隅なのか、オレの眼球の隅なのか、それとも頭の隅なのかよくわからない。一先ずファインダーから目を離し三脚から一歩引いた。
老女の「声」は初めてである。
少し長いまばたきを繰り返すと生え際より汗が伝った。スタジオ内はこの日の被写体と背景、その取り巻きのお陰で異常に熱されている。オレは窓際まで下がり膝をついた。鼻先から汗の雫が床に落ちる。丸い玉は固い絨毯に一瞬だけとどまってからすぐにしゅんと吸い込まれていった。オレはすがるように慌ててその痕を押してみるのだが指先が床に数ミリめり込むばかりで当然何も触れてはこない。今日は朝から調子がまったく上がってこなかった。
たぶん、外の方が涼しいでしょうね
いつの間にか傍らにアシスタントがいる。
タオルを差し出していた。
ヤツはすぐに立ち上がるとこの現場はヒドいと付け足して楽しそうに笑う。
気の利いたアシスタントは何かを察し勝手に五分の休憩を叫んだ。
オレは渡されたタオルに顔を押し付けながら過酷を愉しめる無邪気さを素直に羨んでみる。
雨季が去って本格的な暑い季節の到来に誰もが浮き足立ち始めると気温は一旦降下した。
そんな毎年のパターンにざわざわと一喜一憂する事がもはや風物となっている。
気がつけば七月も残り十日を切っていた。
しゃがんだまま見上げると窓の外で空が白い。季節外れの雨は昨日から降ったりやんだりと歯切れが悪かった。幾本かの電線が空に黒く栄えている。たわみの最下点に集まった雫がリミットを越えると大粒でぽとりと落ちた。
それは世界中で繰り返されている事
思考が不安定にぼやけている。電線を見ながら「世の不条理」などと強引に結びつけようとしていた。インスピレーションが加速してゆかない事をオレはどうやら自然現象の所為にし始めている。
重症だった。
「ヨシ カメラヲムケロ」
撮影再開の予定時刻から十秒が経過。
後頭部から眉間にようやく「声」が抜けた。
いつもの機械的な声である。
オレは強く短く息を吐いた。
有能なアシスタントが待ってましたと嬉しそうにテキパキと動き出す。
窓が再び閉め切られ霧が吹かれた。
照明が一斉に焚かれる。
湿気も温度も最高潮に達すると被写体であるグリーンイグアナ様が配置された。
するとその時、再び老女の声。
今度はハッキリとオレの頭に届いてきた。
「そぉのきゃめらなのかい」
そうか
取り巻く熱帯の植物達がぐいぐいと前のめってきた。
オレは背中に力を込める。
合図を出した。
三脚を下げさせる。
生意気なアシスタントが私は分かってましたよと走り寄った。
旧きよき我が愛機を丁寧にオレの首に下げるとヤツは一目散にストロボの再調整に入る。オレはがっしりと右手でカメラを握った。支える左の掌にずしと伝わる久しぶりの重みに全身を一瞬で慣れさせて一体する。肘を上げてカメラとの距離を一気に詰めた。指先に神経を一気に集約させる。そしてゆっくりと冷静を熱に均衡させていった。
アシスタントから合図が入るがシャッターはまだ切らない。
ファインダーの中ではそろそろ爬虫類やらがじれ始めていた。
オレはまだ切らない。
オレは再び「声」を待っていた。
雨がやんだのかもしれない。
静寂のスタジオが張りつめていた。
少し前から、
遠くに祭り囃子が聞こえている。
リハーサルだろうか
そう思った途端、ドンという和太鼓の音が聞こえ、
まるでそれを合図にしたかのように「声」がオレを突き抜けた。
オレはぴたと息を止めあとは一心に右の人差し指を乱打する。
そこにある一切をフィルムに焼き付けていった。
バサバサというシャッター音が遠くで鳴り続ける暴れ太鼓を踏襲する。
時折そこに声が速まりながら「いけいけ」と重なっていった。
ブレスは入れない。
酸欠の寸前、
ようやくファインダーの中で背景である熱帯雨林が先にオレに呼応した。
声は「もっともっと」と鼓舞している。
外からの祭りのリズムはますます高まっていた。
たまらずにか、
ようやく被写体が踊り出すとオレの背後から歓声が上がる。
ぁあ、、
そしてまたスタジオの温度が上昇した。
PR