「ぁーぁ ぁあーぁぁ」
やれやれ
わたしは声のする網棚に視線を上げてみる。
案の定、
朝の通勤電車ではなかなか見慣れぬものがわたしをじいと見下ろしていた。
久しぶりの「その類い」からの接触である。
わたしの家系は代々背が高い、
だけならいいのだが、、加えて霊感がめっぽう強かった。
そんな不運をようやく忘れかけていると、
「使い」のようにその類いが現れては厄介な血筋を実感させられる。
レモンだった。
あるいはそっくりな何かかなとも思ったが、改めて冷静に見直してみてもどうやらそのものである。手の平大で酸味が売りの例の柑橘が地下鉄の揺れに踏ん張りながら確かにそこにいた。大きさと色艶からおそらく外国産である。さも眉間に皺を寄せている風で「いかんいかん」とレモンはわたしを残念がっていた。(実際に耳に届いてくるのはあーあーといった胎児の発声のような音なのだが)
何がよ
わたしは網棚のふちにつかまる素振りで指でレモンをそっと突っついてみる。そして、玄関からここまでの中距離走ですっかりあがった息を豪快に整えながら自分の行動を振り返ってみた。(こういう時、わたしは隠そうとしたり抑え込もうとしない質。乱れた呼吸なんて次の駅までに一気に回復させてしまいたい、そういう人)
今朝のわたしも駆け込み乗車をするりとキめると、はいすいません、はいすいませんねぇと自分より小さなオジサマ達の頭頂部や生え際を見下ろしながら、いつも通りに「比較的ゆったり混み」の車両の中程まで進んで行く。それから、定刻通りに動き出してくれた列車への安堵の中で少々濡れた傘をちゃっちゃと雑に畳んでからカバンに放り込みー、、、ははぁん、どうやらそこに異議があるらしかった。
自称、世界一の霊能者の母の教えはこうである。
こっちの常識はあっちの非常識
長いものには巻かれて上げなさい
つまり、
おおらかにかつ内心で高飛車に対応
娘のわたしはそう勝手に解釈していた。
わたしは無造作に投げ入れた折り畳み傘をカバンから引っ張り出す。
レモンはぴくりと反応を見せた。余計なお世話だけど、と滲ませながら「生娘らしくおしとやかにせよ」と苦言の風でわたしに向いて二度三度と微動する。
かわいいやつ
わたしはマジックテープを外して傘を畳み直した。生娘らしく周りに雫が跳ねませぬよう。(レモンはそうですそうですと頷いている風)そして一枚一枚を揃えて送ってから固く巻いた。この時季は持ち手に縛りっぱなしにしている傘袋をほどきその中に入れる。念には念を入れて部活用のフェイスタオルにくるんでからカバンに入れてみた。「やればできるじゃない」とレモンはご満悦で最後は先輩修道女の風である。わたしはレモンをくすぐるように人差し指で擦ってやった。レモンは「やめなさいやめなさい」と嬉しそうにころころと鳴いている。わたしもレモンも面白がって戯れていると、やがて、すっと接触は立ち消えて、列車は間もなく目当てのプラットホームへと滑り込んで行った。
今日も一日がまぁ無事に過ぎようとしている。
部活を終えて帰宅の電車の中で、わたしは今日の色々を思い出していた。
昼休み。
入学して丸三ヶ月が経ち、わたしは多分初めて一人で過ごしていた。一年がいないだけでいつもの屋上が閑散としている。みんな午後の小テストをあがこうと早々に教室に帰ってしまっていた。(わたしは悪あがきはしない質。開き直ってリラックス、ダメなら次がんばりゃいいじゃない、そういう人)
わたしはいつもの長いパンをかじりながら見慣れぬ光景を見物している。
すると、ひょっこりと頭がひとつとび出ていた。
あ、あいつだ
ぽつぽつとある二年生、三年生の輪の向こうにこのとこ少々気になるあいつがいる。
ぼんやりとあいつを観察しているとわたしは気づかれた。
そして「あいつ」は屈託のないいつもの笑顔で近づいて来たのである。
(きたー)
「バレー部だよね」
(ぅわ、話しかけてきた)
あ、たしか、、バスケ部、だっけ
(だっけじゃない、確実にバスケ部のあいつである)
(わたしより背が高い男子って一年でキミだけだから)
「この前試合出てたよね、すげーじゃん」
ぃや、先輩がたまたま、、ちょっとだけ
わたしは女子らしくかぶりをふってみる。
(ジョシらしく、、なんだそれ)
(一年でゲーム出てるの全学年でキミとわたしだけだから)
(わたし知ってんだから)
「180あんの」
(ないわよっ、、ぎりぎりだけど)
わたしはとびきりかわいい笑顔の前で手を振った。
(な なに わたしキモ)
それからなにやら音楽とかの話をされた気がする。
憶えていない、すぐに予鈴が鳴った。
「やっぱデカいと話しやすいな、、じゃ、、テストグッドラック」
最後に例の笑顔を見せると、親指を立てて走り去るあいつ。
(ん あ え はぁ?)
わたしは半分残っていた長いパンを袋の底まで戻した。
とりあえず会釈をしたかもしれない。
(はぁー?)
おかげ様で午後の小テストは散々であった。
電車が駅に到着する。
わたしはスーパーに寄ってレモンを買った。
衝動。
外国産の大きくて一番色鮮やかなのを選んでカゴに入れた。
ずいぶん風が強い夕刻である。
空はまだまだ明るかった。
それでも、
色々を終えた人々がそそくさと家路を目指している。
そんな雰囲気が終わりゆく今日を連想させ日の暮れを十分に予感させた。
わたしは空を見上げる。
嵐の前兆っぽいバタバタとした地上をあざ笑うように雲はゆったりと流れていた。
わたしはカバンを持ち直す。
スピードを少しアップさせ歩幅を数センチ広くした。
家に着くとまだ家族は誰も帰っていない。
わたしはざっと洗面だけ済ますと自室へと階段を上がった。
靴下だけ脱いでブラウスの裾をスカートから出す。
うすく汗をかいた背中に風を通した。
窓の外が暮れなずもうとしている。
少し暗いが部屋の灯りは点けずに机についてデスクライトをつけた。
カバンからレモンを取り出して光の下に置いてみる。
このレモンは何も語らなかった。
わたしはハンカチをポケットから取り出してレモンの表面を拭いてみる。
肉厚い表皮がすぐに人工的なつやを放ち始めた。
ちょっと嫌な程テカらせてからわたしはレモンをじっと観察する。
くるくる回してみたりくんくん嗅いでみたりぐいぐいと指の腹で押してみた。
そして、ペン立てに手を伸ばす。
カッターを静かにレモンに突き立てた。
ずぶりとした鈍い感触が手に残る。
気持ち悪い
磨いて磨いてプラスチックにしたはずなのにレモンは生身だった。
無神経なわたしの尖鋭をレモンは静かに受入れる。
そして悲しみに似た手触りが指先に小さくずっと残っていた。
誰かにもっとやさしくしたい
どうやらわたしはそう思っている。
グレーだった外の光にダイダイが混ざっていた。
ちんたらと流れていた雲が晴れたのかもしれない。
強い風がばさばさと近くの木々の枝葉を揺らしていた。
レモンで濡れたカッターの刃先がデスクライトの白い光を反射している。
なんだかそれがとってもキレイで、
わたしはそのまま刃を仕舞っては、ゆっくりと再び出してみた。
親指を動かす度にするカチカチカチカチという音がちょっと虫っぽいな、
そう思った自分が妙にウケる。
時刻は十九時をまわっていた。
ようやく日が暮れようとしている。
雨季はそろそろ明けるのだろうか、
全開にした窓から風が運びこむ空気はもう夏だった。
もう夏かぁ
呟いてみる。
机の上でレモンの周りに小さなたまりが出来ていた。
わたしはその果汁にそっとクチビルをつけてみる。
ファーストキスの味を確かめた。
ん
ファーストラブの方だっけか
よくわからん
いずれにせよ普通に酸っぱい
宇多田ヒカルでふんふんと鼻歌を鳴らす。
わたしはハンカチで机を拭いた。
不意に
恋、と少し濡れた指で宙をなぞってみる。
はぁーあとなんだか前向きっぽい大袈裟なため息がもれた。
机に突っ伏してみる。
すました耳が音を選り分けていた。
破廉恥な選挙の街宣が近づいて来る。
未成年は例によって蚊帳の外であった。
聞かぬ権利、聞かぬ権利。
早く行け
そう念じてみた時、ぞくと血がざわついた。
どうやら、久しぶりの朝の接触がわたしの感覚を研ぎ澄ませている。
りんりんと眉間の辺りに共鳴が起こり、直後に玄関の鍵が開いた。
間もなく、階下から身長百七十四センチの母の声がする。
カッターをハンカチで丁寧に拭ってから虫の声をさせ刃を仕舞った。
デスクの蛍光灯を消してみると窓の外で今日の残光が際立っている。
(初恋か初チューか、レモンの味ってどっちよ)
再び、母が呼んだ。
わたしはレモンを手に取って、付けた傷口にキスをする。
味香の消えぬまま部屋を出ると、
とんとんと軽快なステップで階段を降りていった。
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