「ずいぶん大きいですね」
思わず声を出していた。
昼からの高いテンションはまだまだ維持されている。日が暮れてますます強まった風が私を吹き抜けた。朝からの炎天もまだまだ風の中に名残っている。丸半日分の程良い疲労とたっぷりかいた汗、早く帰ってシャワーを浴びたいハズなのに、いつだって猫がちょろちょろと視界に入っては私は歩みをストップした。
この日は本当はデートの日である。
この時、私と大の男は、週に一度会うか会わないか程度で十分だった。
すっかり落ち着いてしまった平熱気味の関係である。
ホントは会わなくてもいいのかもしれないが、
なんだか「面倒」をお互い避けたいが為の暗黙のルール的に、会えればとりあえず会っていた。
そして、会う時は私が彼の部屋に泊まる、かラブホ。
型にかちゃりと収まりつつある事に抵抗を感じながら、
私達はお互い「楽」にすがっては、
いつの間にかズルりと平凡な二人に成り下がりつつあるのだった。
待ち合わせ場所に着くとどん、ぴしゃというタイミングで高らかに携帯がメールを着信。大の男からであった。軽妙な短文が大事を伝えている。大の男らしいさらりとしたキャンセルだった。約束の時間までは五分を切っている。メールを読んで時計を確認した私は不思議とすっとした心持ちになっていた。
初めて「無痛」である自分に気がついている。
短く返信を済ませて携帯を畳んで仕舞うと空いた両手が思わず天を掴もうとした。人目もハバカらず、ぐかぁと大きく伸びをかます。なんだかウキウキしていた。わくわくと湧いてくる感情のままに盛上り始めている週末の繁華へと独りで歩み出した。
今思えば、どうやらこの瞬間に大の男を卒業したようである。
私は映画を派手目なアクション物に変えた。観後、気分爽快のまま遅めのランチへ突入。大の男の苦手なエスニックを選んでみた。独りなのですんなり席に着いてゆっくりといつもよりたっぷりめに食べてみる。デザートもしっかりと胃におさめた。店を出ると傾き出した陽に時折の風が心地良い。私の高揚は体中を駆け巡っていた。よし、と嫌いなはずの人混みにどんどん踏み入ってはずいぶん変わってしまった久しぶりの有楽町を闊歩した。久しぶりの独りにいつまでもなんだかウキウキと次々と新しいお店を素見してゆく。何もかもを自分ペースに過ごしたその日はあっという間に時間が過ぎて行った。
そろそろ帰ろうと決めて、私はなんだかそうしたくなって人の波を逆流した。大手町へと一駅歩く。皇居の堀が最低限の街灯と高級車を反射していた。キレイ。目に映っているもの意外を忘れていた。なんて幸せ。やがて遠くに見える地下鉄の入口が到着とこの日の終焉を夜に映していた。
そして、惜しみながら近づくとビルとビルの間に影を見たのだった。
「ずいぶん大きいですね」
ハイテンションの私は饒舌である。
迷わず向きを変えるとしんとしたコンクリートの暗がりへと歩み寄っていった。
「やれやれ」
今度はわざと声に出す。私はメガネを取り出した。人だと思って近づいた黒い影は大きな岩である。そして岩の傍らに置かれたクッションをバカに大きな猫だと勘違いしたのだった。大きな岩も毛のクッションも到底この場所には不相応な代物で、今思えば、そこに不自然を感じるべきだったのかもしれない。
ビル群のお膝元がひっそりとしていた。
週末の夜の東京で私はまるでたった一人である。
なんとなく大きな石と大きなクッションをつま先で小突いてやった。
一旦風がピタりと止まり、一気に強風が吹き下ろす。
私は押し出されるように明るみへと戻って行った。
くっきりとした視界がひっそりとした皇居の森にカラスの群れが帰って行くのを見せている。不思議な脱力感が全身を包んでいた。私はふらふらと地下鉄の入口へとカラダを向ける。改札を抜けてほどなく来た電車に乗込んでシートに身を任せると、あとは最寄りの駅までこんこんと深い眠りに落ちた。
九時間後、
いつものように目覚ましが朝を告げる。
目を覚ますと私は小さくなっていた。
ひとしきり慌ててみる。
やがて考えるのが面倒になって全てを受入れた。
もの珍しくなったおかげである。大の男とはそれから一ヶ月も関係が続いた。
再燃の恋は一時こそかつてなく激しくも、終わりは案外軽くあっけなくてはかない。
まだ大きかった頃から私は大の男の長髪が好きだった。さらさらとした細い髪を指の背でそよそよと撫でていると安心する。小さくなってすぐ、私は大の男の長髪を腹に巻き付けて寝ていた。私はそこで安眠する。朝起きると私の寝床だけカールしていた。大の男は鏡でそれを見てはやさしく笑う。そして、次の週に黙って髪を切って帰って来た。大の男に対して私に微塵も怒りがない。それを知り、お互いの想いとは裏腹に何かが終わろうとしているのをひしと感じたのだった。
あの言葉を初めて聞いたのは、ばさりと髪を切って来たあの日からである。
大の男が私に対して「てのひらサイズ」という言葉を使い出した。すると私の中で踏ん張らせていた何かががらがらと崩壊し始めて、そこから堰を切って不信が溢れ出す。大の男からどんどん心が離れて行った。そして大の男の心もおそらくは。。
それでも、もうしばらくは小さくなった私の大きな不安が「流れ」に抗おうとしていた。私は短くなった大の男の髪の毛も好きになってみる。風呂上がりの乾きっぱなならば、そこをのしのし歩いたりごろごろ転がるとたしかに大層気持ちが良い。なんだか草原にいるようだった。
のに、、ナイターを見ながら大の男はそれを段々と嫌がっている。
私の幸せが大の男の喜びではなくなっていた。
私の居場所はもうない。
私はようやく気がついたのだった。
中の男に会う前にもう一人小さな出会いがある。
もう忘れかけているが、小の男と私は数週間だけ付き合った。
オレは派遣だからというのが口癖の小の男は「この人自分の仕事が好きじゃないんだ」が第一印象である。憶えている事は少なくて、私の無関心に業を煮やして、つべこべと「運命」だの「真理」だのと哲学をざっと述べてしまうと結局最後はセックスを求めて来たので、一気に私は引いてさしあげた。
そういえば、小の男は丸坊主である。丸坊主の男性とは初めてだったのでそれだけで興味はあったし、この先、自分と同じサイズの人に出会えないのかもしれないからとイージーな方向に流れそうにもなったのだが、私は自分でも驚く程クールだった。小の男の自信に満ちた感じがやはり「もの足りない」と直感し小の男の限界を警告し自分には決して甘えと妥協を許さなかったのかもしれない。
大の男ととことん付き合ったおかげで、なんとなくわかった事があった。
「私を幸せにできるのはどうやら、隣りに一緒に居る男性ではない」
どうやら私って、私が自分で自分を「幸せにする」しかないようである。
中の男は前髪だけ異様に短かった。
そして今も短い。
それなんて髪型なの、と聞くと、「名前なんかねぇっすよ」とそっけなくて、
だってオレ自分で切ってっからと右手でハサミをつくると、ちょきちょきと仕草した。
アンバランスな髪型は一度見て変と思った後でじわじわと妙に気になり始めて、
今はそれがまぁまぁイけてるのではと思っている。
「それがねらいっすよ」と中の男は笑みながら得意げに人差し指を私の鼻先に突き立てた。
私はそんなの中の男の後付けだと疑いながらその言葉を思い出してはニヤついている。
中の男とはドーナツ坂で出会った。
地面にドーナツ型に穴があいてるので私は勝手にそう呼んでいる。
本当の名前はわからない。
私は漢字がよく読めなかった。
そう言えば、その事を打ち明けた時、大の男はへぇそうなんだと無関心で、小の男はそんなのなんて事ないと慰めて、中の男はダメだと言った。なので、今私は漢字を練習している。中の男に一日一つ教わって、それは大層楽しい、、そうそう、出会いの話である。
ある日、私がドーナツ坂を通りかかると坂の上から何やらごろごろと転がってきた。
青りんごである。
私は危うくその一つに轢かれそうになった。
寸前でひょいとかわす。
青りんごは国道の手前でスピードを緩めると縁石に静かにぶつかり停止した。
私はなんだか楽しくなっている。
そしてしばらく退避もせずに、引っ切りなしに転がってくる薄緑の果実に挑んでいった。
ほい、そい、よいしょ、ほいしょ、どっこしょ、とかわし続けて、
最後の青りんごを軽快にジャンプでやりすごす。
そして中の男が登場した。
子供用の自転車を改造したのか、えらいカッコいいキャリーで中の男が坂を下りてくる。上でコケちゃってと言いながらぺこぺこと頭を下げていた。中の男はキャリーを国道に沿ったガードレールにぴたと停める。それからあとは黙ってりんごを集めはじめた。
振り返ると私がかわし続けたりんご達はまるで意思を持っているかのように一列に整列している。中の男は端からひとつひとつ拾い上げてはダメかという表情でキャリーに入れていった。私は最後のチェックを待つりんご君の傍に立っている。そして中の男の一挙手一投足をじっと監察していた。
「全部ダメでしょうか」
食べれんっすけどね、と言ってひょいと手の平一杯の一玉を持ち上げた。首のタオルできゆきゆと丁寧に拭ってから、中の男はがぶりと歯を立てる。一口分の皮と果肉をゆっくりと口の中で咀嚼すると満足げに二度三度頷いた。そして、私にりんごを抱えさせた。私はどうもと会釈してりんごをちょりちょりと齧ってみる。中の男はなぜか毎回ひと齧りしてから私に青りんごを渡してくれた。
私達は坂の下でガードレールに腰掛けている。そして、黙々と青りんごを食べた。時々通りかかる小学生が必ず中の男のキャリーに羨望していくのが面白い。私達は国道を向いたまましゃりしゃりちょりちょりと並んでりんごを食べ続けた。
超満腹。
久しぶりの感覚だった。
なんか痛快。
私は三個半からマイナス三口分、中の男は十四個半とプラス三口分の林檎を食べ終えた。
空はまだ明るかったが下りの車線ばかりが混みだしている。間もなく、夕方であった。さてと言って中の男がガードレールから飛び降りる。そして、三十余りの青りんごと十八の芯が残るキャリーの箱に目をやった。
埋める事にする。
いいとこないかな、という中の男に私の好きな場所を案内した。
そして私と中の男は土手にいる。
私は川が好きだった。
小さくなってからますますスケールの大きなこの場所を愛している。
土手を登りきると、中の男はへぇとだけ言った。
初めての川だと言う。
きょろきょろと見回しては腕を伸ばしたり首を伸ばしたりしていた。
そして何度もへぇと言う。
中の男は突然、わーと大声を出した後、この日一番の笑顔を私に見せた。
日が落ちてから、
まだしばらくは残る明るさの中で私はりんごを見張っている。
間もなく中の男が自分用に中くらいのスコップと私用には小さなシャベルそれから大きなバケツを一つ調達してきた。
中の男と私は暗くなり人の気がすっかり失せてから穴堀りを開始した。
しばらくして、中の男が歌い出す。はじめは遠慮がちにふにゃふにゃとそれは聞こえだし、やがてしっかりと私などハバカらず喉を鳴らしだした。掘ろうという気にさせる歌である。中の男はなかなかの美声であった。私もなんだかノってきたのか、いつしかホイだのソレだの合いの手を入れている。似たような三、四種類の民謡を三セット歌い終える頃、大層立派な穴が出来た。
私達はりんごより先に穴に入ってみる。
並んで座る穴の底はヒンヤリとしてこの世のどこよりも静かだった。
見上げると夜の空が意外と明るく穴の形に切り取られている。
しばらく、ぼおと見上げながら私はちらと中の男に視線を向けた。
中の男の目が潤っている。
漫画のように夜の星を映していた。
中の男は満足そうにじっと夜空を見上げている。
私はこっそりその様子ばかりを見上げていた。
吐く息が土に吸い込まれている。
代わりに湿った冷気を大きく吸い込むと私の口からくしゃみがひとつ飛びだした。
よし、埋めよう、そう言って中の男は立ち上がる。
少し迷って私をそっと抱き上げた。
私の脇に手を挟むとすっと穴のフチに座らせる。
見下ろすと星の光が中の男の紅潮の顔を私に見せた。
私だって間違いなく頬を染めていたはずである。
でも、幸いにも中の男の方からは影が私の恥らいを隠してくれていた。
りんごを一つずつ丁寧に落としてゆく。
中の男も私も無言だった。
私はとりあえず、芽が出ろ芽が出ろと自然と念を込めている。
最後の一つを中の男がひと齧り。
再び例の小さな頷きのあとでりんごを私に抱えさせた。
私もひと齧りしてりんごを返す。
交互に奏でる歯切れの良い二種類の音がいつの間に鳴き始めていた夏の虫の音に重なっていった。
仕上げに最後の芯を埋める。
なんとなく二人で合掌していた。
見つめ合って笑い合ってみる。
そして、水際まで下りてバケツで水を汲んできてはざばざばと何度もかけた。
じゃ、あと一回と川を向く。
東の空がうすく明るんできていた。
鉄橋の向こう、遥か先に海へと続く先の空が青い。
どうやらちょうど川から陽が昇りそうな様子だった。
帰りますかと中の男が私に視線を下ろす。
「もうちょっと」私は言ってみた。
中の男の表情がぱっとしたような気がする。
微かな笑みを含みながら彼も言った。
ほんとは、ボクももうちょっと
私達は始まりだした今日を見ていた。
やがて警笛がふぁんと耳に届いたので間もなく高架橋を一番列車が通過する。
鳥の声が目立ち始めた朝の空気にかたんかたんと音がして、
銀の列車が逆光で漆黒の橋を走り抜けるのを見ていた。
「大きいね」
私は言ってから隣りに立っている中の男の短パンの裾をつかんでみる。
ドップラー効果が音程を下げると、すぐに列車は見えなくなった。
川はじっとしていてまるで湖のようである。
時々、魚が跳ねては小さな波紋が出来てはすぐに消えた。
酸素を吸い込んだ魚が底に帰る頃、
歪みのない鏡面に戻った水面が再び世界をそっくりそのまま逆向きに映す。
たいていのなにもかもは、
そうつぶやきながら中の男は真直ぐ前を向いていた。
両手のバケツを地面に置くと、ごしごしと手をポロシャツで拭っている。
大抵のもの、何もかもが僕らなんかより
中の男は慎重に繰り返す。
大きいっすよね
そう続けて、下ろした右手を私の指に触れさせた。
ばしゃとひときわ大きなサカナが跳ねる。
波紋が大きく広がってそのままに川が動き出した。
中の男の指の先が、
短パンの裾をつかむ私の指にやさしく絡みつく。
長過ぎず短か過ぎない、細過ぎず太過ぎない、
そんな中の男のミディアムな指がぴとぴとと遠慮を滲ませながら、
それでもぎこちなく触れていた。
陽が昇ってからもいつまでもいつまでも。
それが、彼との出会いだった。
そして今も私は、中の男と付き合っている。
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