まもなく、、
不意に運転手はそう言った。
11月に入り時節の空気がウインドウを薄く曇らせていた。
鈴本理人はタクシーの中にいる。
海より昇る明日の太陽を助手席から待っていた。
(...まもなく?)
もぞもぞと車内の空気が揺れた。
“弟の方” が寝返りをうったのか。
後部座席では20分前から “ふたごのタクシー運転手” の弟の方が熟睡していた。
鈴本理人は顔の近くで窓の水滴を指先でこする。
外の世界で白い口が笑っていた。
ずいぶん低い位置に半月まであと一歩の月が浮かんでいる。
美しい奇跡のアールで偽物のようにそこにあった。
まもなく、の言葉の続きを待っている。
鈴本理人は埋めていた全身をシートから起こすとのり出してワイシャツの袖でぐしぐしとフロントガラスを拭ってみた。
夜に潜んでいたはずの水平線が海と空をくっきりと分けている。
いつの間にか朝はそこまで来ていた。
期待して運転席に耳を傾けていたがすうすうと寝息が聞こえてきた。
ついに兄の方も眠りに落ちて車内は睡魔が充満し始める。
(まもなく、、どした)
運転席を見ると兄がじっとシートと一体化していた。
鈴本理人は座ったままひとつ伸びをした。
ダッシュボードの乗務員証の2人が悪ガキのような笑顔をつくっている。
タクシーを拾った時、兄弟は声を合わせた。ほら、おれたち半人前づつだから交替で運転やってんのよ、、白髪の角刈りを触りながら照れた様にでも嬉しそうに言ったその表情を思い出した。ほら、おれたち、、が兄弟の口癖。。
鈴本理人は財布から1万円札を2枚出した。
丁寧に細く畳む。
運転席で早くも熟睡のモードに入った兄の方の胸ポケットにそれをさした。
ふたごを起こさぬように出来る限り音を出さずにドアを開けると冷気が車内に流れ込む。
滑る様に外に出ると静かにドアを閉めた。
鋭利な空気がヒヤリと皮膚に触れてくる。
案外弱い風を受けながら鈴本理人は海を目指した。
砂浜への階段を1歩2歩と下りるとすぐに波の音が全てになった。
どんなに耳をすまそうともそれ以外何も聞こえない。
そこが求めていた世界だった。
階段の下には不法に投棄された粗大ゴミがたまっている。
鈴本理人は深く傷のついたサーフボードに触れた。
サーフィンは経験も興味もない。
鈴本理人はネクタイを取った。上から3つボタンを外すとワイシャツをズボンから引っぱり出す。サーフボードを脇に抱えるとジャケットを代わりに脱ぎ捨てた。歩きながら革靴と靴下を脱ぎ捨てる。
薄着になって体温はどんどん奪われていた。
11月に入り時節の空気は冷たい。
ただ、吸い込まれるように世界に踏み込んで行く鈴本理人の身体の奥からはそれを上回る程の熱がじんじんと発生してきていた。
波打際に立つと鈴本理人はボードを地面に置いた。
気持ちの高ぶりとバランスをとる様に全身を動かしてみる。
そして足首までそろりと海に浸かった。
あごを軽く引いて視線を落とすと視界は海水だけになる。
広がる水だけを見据えると宣戦を布告して目を閉じた。
小さく胸で十字を切ってそのまま右手をそっと海に差し出す。
握手。
顔を上げると指先をぺろりと舐めた。
ひと雫の海が一気に体内を循環する。
鈴本理人はじっと精神を統一した。
サーフボードを波に浮かべると見かけ以上の強い力でもっていかれそうになった。
鈴本理人はしっかりとボードを携えてゆっくりと沖へと進む。
腰まで海水に浸かる所でボードに飛び乗った。
腹這いでしばらくバランスをとりながら浮いていると波が囁きかけてくる。
カクゴハイイノカ
顔にかかる波も気にせず鈴本理人は前を向いていた。
腕立て伏せの様な姿勢でじっと水平線に目を凝らす。
緩い波がボードと胸の隙間で次々と泡となった。
ようやく爪の先程に顔を出した太陽から金色の光が溢れ出す。
よしとアゴをボードに押しあてて両腕で漕ぎ出した瞬間に鈴本理人は入水した。
強い力で猛スピードで引っ張られながら頭は冷静だった。
懸命にサーフボードにしがみついていると波からはもう何も語りかけてこない。
こちらから問うべき言葉も見当たらない。
そして世界が代わりに問いかけた。
居たければいつまでも居ればいい
行きたければいつでも行けばいい
鈴本理人は海中から見る海面のキラキラに幻想した。
手招きする深海の闇は見ない。
やがてボードを手放すと強い力から開放された。
惰性が終わると世界がぴたりと止まる。
何かをしようともがいてみた。
この世界で何ができる。。
そしてあきらめる。
放り出されて無力を知った。
鈴本理人はカクゴする。
深い場所へと沈みながら程なく意識がゆっくりと遠のいた。
薄れゆく意識の中でいつの間にか両脇をタクシーのふたごに抱えられていた。
兄弟が何か言っている。
ほら、おれたちさ、、と水中でも例の口調だった。
あとが上手く聞き取れない。
(なんだよ じゃまするなよ)
鈴本理人の訴えなどこぽこぽと泡となって海水に溶ける。
振りほどこうとする腕に力はなく3人は一気に浮上した。
海面から勢いよく頭を出すと兄弟は深く息を吸い込んだ。
呼吸は荒い。
毛むくじゃらの肩と胸が大げさに上下した。
波は変わらず穏やかだった。
見渡す視界に陸地はない。
鈴本理人のサーフボードだけが3人のそばを漂っていた。
ふたごのタクシー運転手はそっと鈴本理人をボードに乗せた。
弱々しくも確かな呼吸を確認すると2人は1つため息をつく。安堵だろうか、あるいは諦めか落胆ともとれる嘆息が、ようやく整い始めた息に紛れて1つずつもれた。そして兄の方は鈴本理人の左の頬にそっと触れる。弟の方は右の肩を2つ叩いた。挨拶を終えると兄弟は目で合図を交わし同時に大きく息を吸い込んだ。ちゃぷと小さな飛沫をあげて2人が海中へと戻ってしまうと海原は一層の静寂の世界となった。
鈴本理人は完敗だった。
意識が戻ると拾ったサーフボードはその役目を終えて海中へと沈んでいった。
鈴本理人は独り、波に揺らされながら世界にさらされている。
水と空気だけの世界。
ぷかぷかと浮いた敗北者が半身ずつ海と空に凝視されていた。
冷えきった身体はぴくりとも動こうとしてくれない。
少し待って、、目を閉じた。
鈴本理人は受入れた。
思考を停止しようとする。。
その時、空の端っこで太陽はようやく完全に顔を出した。
力強い光がすぐに満ちる。
凍てついた鈴本理人がじわじわと温まるとかちこちの肉体でようやくまぶたを動かした。
世界をもう一度見たいとしっかりと目を開く。
つうと涙が頬をつたう。
歪む視界。
ぼやける世界。
鈴本理人から溢れた涙、
うまれたての今日の太陽がそこにやさしく屈折した時、
西の端、
消える寸前の昨日の夜空では、
完璧なフォルムの白い月が最後の笑みで浮かんでいた。
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