スクイズがきまって均衡は破られた。
試合も終盤に差しかかり両軍ベンチが慌ただしい。
隣りの席で和久井青はおーおーとその様子を覗いていた。
予報通りなら今日で梅雨が終わる。
空は朝からずっと泣きそうで所沢に入った頃ついに最後の雨が降り出した。
外はまだ降っているだろうか。
球場内は蒸していた。
もう夏だった。
豊橋タモツ16歳。
高校生活最初の夏が始まっていた。
選手交代のアナウンスが場内に流れると和久井青はオペラグラスの手を下げた。
そして、膝の上で鉛筆が忙しく動き出す。
それいつ憶えたの
豊橋タモツは試合が始まる前に聞いた。
「あたし、元マネージャー」
なるほど
和久井青は美しく削られた鉛筆を自分に指して得意げに言った。
野球観戦に食いついて来た理由も納得。
豊橋タモツはちらとスコアブックを覗き込む。
日付、球場名、天気、時間、選手、審判、、順に書込まれ記録の準備が進む。
これから今日の試合の詳細がそこにスコアリングされていくと思うと少しワクワクした。
雨の平日のナイターである。
ドームの客席は独特の殺風な雰囲気だった。
会社帰りのグループが騒ぎ、小学生ばかりの慣れた集団が走り回る、
若いカップルに常連っぽい地元のファン、
この時季の風物のカエルの親子もそこかしこに見えた。
それは贅沢なゆとりの充満した悪くない空間だった。
開幕1軍を勝ち取ったタケ兄がくれたチケットは最っ高とまではいかないが、相手方ライオンズのベンチ内がよく見える悪くない席だった。
野球観戦は何年も振りだった。
じいちゃんも楽しみにしていたが行けなくなった。
急遽、クラスで前の席の和久井青に声をかけるとオーケーだった。
2人で遠出をするのは初めてだった。
入学して豊橋タモツの席は窓側の最後列でその前が和久井青の席だった。
最初に話しかけたのは和久井青の方。
入学から1週間後の進路調書記入の時だった。
鉛筆しか持ってないからと振り返った和久井青に豊橋タモツは黙ってボールペンを差し出した。朝と帰りの挨拶以外に2人に会話は無くペンも戻らぬまま2日が過ぎて、3日目の朝、豊橋タモツが登校すると机の上に小さな封筒が置いてあった。開けると中にはメモがあった。「どうやら高校生活には必需なようで鉛筆しか持ってないからボールペンは貰います代わりにこれあげます」
目の前の席で和久井青は座っていた。後ろを振り返る事も無く、ただ普段よりも少しじぃっと座っていた。
2つ折りのメモに挟まれていたのはラーメン屋の割引券だった。
翌朝、意を決して誘ってみると、和久井青はよそよそしく大人しくオーケーした。そして、昼休みに2人で抜け出してラーメンを食べた。
妙な関係が始まった。
クリーンアップが凡退すると最終回を前に内野席から一部の客が立ち始めた。
“貰いチケット” の内野の客に試合の結果を見届ける義務感は薄い。
豊橋タモツ達のすぐ斜め前方ブロックでカエルの父子も席を立った。
最後まで最後までと言う子カエル。
混むから歩きながら観るぞと父カエルはそそくさと両手に荷物を抱えた。
父が先にぴょこぴょこと通路を登り和久井青の横を通り過ぎても、
子カエルはちんたらと生のプロ野球を名残惜しんでいた。
早く行くぞと上の方から何度目かの父カエルの声がする。
今行くよとふてくされながら子カエルはなかなか急ごうとしなかった。
ようやく和久井青の横を過ぎようとして、
年期の入ったライオンズ帽のツバでカラカラと大きなバッチが2つ揺れた。
「ねぇ」
和久井青は子カエルに声をかけるとカバンからボールを取り出して投げた。
それは3回裏にブラゼルの放ったファールボールだった。
NPBのマーク入りの公式球。
遠くで父カエルは大きなその目をもっと大きくして驚いていた。
戸惑いながらやがて満面の笑顔で大げさに何度も会釈した。
子カエルは興奮のまますぐに父の所まで階段を駆け上がる。
ほら、と父に促された息子は向き直り恥ずかしそうに帽子を取った。
野球選手のように和久井青に向かってきちんと挨拶をした。
いいの?
「なんとなく勢い、、後で後悔する」
和久井青はそう言って口許を緩めると満足げにくるりと指先で鉛筆を回した。
父子は背中に幸福を隠さぬままぴょこぴょこと軽快に階段を登って行った。
場内にピッチャーの交代がアナウンスされて続けてタケ兄の名前もコールされた。
守備固め。
今季12試合目の出番だった。
「ちょっと前、行って来る」
よろしくとスコアブックを押し付けるとオペラグラス片手に和久井青は最前列に移動した。
渡されたスコアブックは和久井青の達筆で整然としていた。
鉛筆を握り、豊橋タモツは神聖な場所に慎重に踏み込んで丁寧にタケ兄の名前を書込んだ。
おぼつかないクローザーがランナーを出しつつもなんとか抑えきり試合は終了した。
タケ兄に守備機会はなかった。
「タモツクンのおにーさーん」
和久井青はフェンスにしがみつくと歓声を投げた。
喜びながら引き上げるナインの列でタケ兄は気づいただろうか。
豊橋タモツは和久井青だけ見ていた。
選手を間近に観ようとベンチのそばに群がるファン。
埋もれそうな和久井青を豊橋タモツはしっかりと見守っていた。
タモツクン
初めて、和久井青が自分を名前で呼んでいた。
不思議な気持ちの中で急に熱が身体の芯からこみ上げてきて、
あわてて汗とりシートで額を拭う。
どうやら初めて恋というものを意識していた。
あちこちで清掃用のブロワがぶぉーんぶぉーんと唸りだして観客を追い出していた。
顔を上げると半分消えたカクテル光線の空間が懐かしい。
じいちゃんとタケ兄といた野球場。
今日は彼女と来ている。
カノジョ?
熱っぽい身体にまとわりつく湿気を振り払おうと豊橋タモツは立ち上がった。
1つ大きくノビをするとぬぁと身体の奥から声がもれた。
満足げに戻って来た和久井青に目撃されていた。
「変な声出したでしょ」
いや、と言いながらふふと笑っていた。
自然と笑っていた。
和久井青もふふと笑った。
そして、座席に座り直した。
2人で前の席に足を投げ出して、
なんとなく黙ってグランドを観ていた。
ピッチャーマウンドが簡単にならされてシートがかけられる。
センターのバックスクリーン方向に帰宅の客が流れて行く。
その中にカエル父子もいるはずだった。
やがて、ブロワのぶぉーんが近づくと、
2人は3塁側内野席で最後の観客となっていた。
豊橋タモツが先に立ってカバンを手に取った。
ぺことプラスチックの座席をたたいてみる。
和久井青も真似してたたく。
それを合図に2人は通路に出た。
もう1度だけふふと笑い合ってから、
やたら広い階段をどこまでも踊る様に跳ね上がって行った。
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