セイウチとトドの話が終わろうとしていた時、
王子の口がかはと小さく開いた。
今夜2度目の欠伸だった。
ポニーテールの店員がようやく蛸のザンギを運んで来た。
店内は満席。
世界は今夜もぎゅうぎゅうだった。
空いた皿をそそくさとさげるその青年は凝視すると意外と老けていた。
ども、と小さく言いながら王子が腕時計をチラ見した時、反射的に片丘茶知子も携帯の小窓を確認した。
隣のイスのテーブルの陰で時刻は20時50分を示しいつの間にかメールの着信も伝えていた。王子と向かい合ってから2時間が経とうとしていた。
寝てないの?
「ん、いや」
そんな事ないですよぉと少しおちゃらけると、
王子はグラスの底の薄まったウイスキーを美味しそうに舐めた。
「サチコサマ、つぎは?」
片丘茶知子は籠の上で懐紙に盛られた蛸を小皿に3つほど取った。
柚子?
王子が小刻みに2度うなずいたのでちゅと軽く搾ってから渡すとドリンクのメニューが返って来た。
手近な店員は今度は学生っぽい女の子だった。
呼び止めると顔のわりに意外な気っ風が気持ち良い。
王子は引き続きウイスキーのダブル、
自分は甘口というだけで聞いた事のない日本酒を頼んだ。
さっきのロンゲのあんちゃんならお薦めでも聞こうと思っていたが片丘茶知子はすんなりとオーダーを済ませた。
柚子効いててウマいねコレ、と王子まで届くか届かないかという絶妙なヴォリュームで言ってみる。案の定、王子はトロりとした目で何か言ったね今と投げやりに微笑んだ。そんな王子との駆け引きは楽しい。
そんな心配のないやりとりが唯一にして絶対の王子とのつながりだった。
つまりそこに遠慮や緊張を感じだしたらおそらく世界は終わる。
一口残っていたお通しの鉢に箸をつけた時、店の外から大きな音が聞こえた。
誰かが何かに叩きつけられた様なバーンという重い音が店内に響いた。
その時、世界の7割がひとつになった。
続けて怒号がひとつ。
やたらに声が高い男。
何を言ったかは不明だった。
店内は止まる。
そしてようやく一瞬、世界はひとつになったのだが、すぐに、くすくすわいわいと様々な笑いがそこかしこに起こると、喧嘩だやーねだ野蛮だ羨ましいだとひとつになったはずの客達はばらばらとそれぞれの島に帰って行った。
予想通り王子は帰って来なかった。
外に注意を払いじっと聞き耳を立てている。
下唇を噛んだままわくわくと次を待っていた。
何でしょうねぇ、などと言いながら今度は店長っぽい男が来て枡に私の日本酒を溢れさせてくれた。料理はどうだとか聞かれても王子はうわの空でグラスを受け取る。ども、の一言は忘れなかった。
店長風が丁寧に去ると、すでに世界は再びバラバラの喧騒の中に埋没しそうになっていた。片丘茶知子は残りの蛸のザンギにたっぷりと柚子を絞りながら、見てらっしゃいよ外、と最高のトーンで呟いた。
一瞬の間の後、
今度は女性の奇声があがった。キーキーと叫び続ける声は泣いてるのか怒っているのか片丘茶知子には分からなかった。
「じゃちょっと」
親指と人差し指で宙をつまむような仕草をして、もう一方の手にグラスを持ったまま王子は立ち上がった。その後を追うように店内のあちこちの島から男や女が腰を上げる。野次馬はそれぞれ荷物を残したまま手にはジョッキや串揚げをたずさえてわいわいと楽しそうに続いた。その光景を「なんだか夏っぽいっすな」と片丘茶知子はノンキに見送って王子がいないので携帯電話をテーブルに上げた。
メールの送り主はモリノネコだった。
ふふと今日一番の笑顔をつくると。
一昨日から打っていた彼女への下書きを開いた。
セキセイインコが郵便受箱に住み着きました。それはある日突然の出来事で。そして、どうやら “その所為” で身の回りにラッキーな事が起こっている。「あのコの仕業に違いない」ワタシはそう踏んでいます。居着いたその日。からあげクンが1個多く入ってた。それから、ささやかないい事がぽつぽつと起こってて。きわめつけが昨日。密かに恋心を寄せだした後輩(イケメン)とコンビで出張が決まったのだった。鳥取だぁ。今日は王子と飲んでて今ケンカ見に行ったよ。いや王子っすから(笑)。。。。オッケー☆休みが開けたら飲みましょう。。旅行もしたいぞ。じゃまたたまにメールとかくれ。
ニヤニヤと返信して顔を上げると店はすっかり空っぽだった。
妙な空気の中にいた。狭いと思っていた店内がやたら広い。
「あらまあ世界にひとりぼっち」とイスから腰をあげてぐるりと見渡すとカウンターの中からだけ音がしていた。グラスの酒をペロとひと舐めすると、片岡茶知子はふらふらと音のするカウンターに引き寄せられていった。
カウンターの中には板さんがまだ1人残っていた。よく見るとその板さんは鳥だった。南国な雰囲気の大きな鳥だった。
片丘茶知子はカウンターの中がよく見える席に静かに座った。
こんな状況の中でも鳥の板さんの目つきは鋭くテキパキとオーダーをこなしている。
完成した料理が次々と後ろの搬出台へとあがっていった。
板さんは終始クチバシをモグモグさせていた。
フライヤーから揚げ物が次々油切りに移される。
その時、板さんはようやく店内の雰囲気に気がついた。
ちっ、と人間がするそれと何ら変わらぬ舌打ちをした。
搬出台ができた料理であふれていた。「あがってんぞ」と店員を呼んだトーンはややたどたどしく外人の話す日本語を思わせた。やっぱり南国の鳥なのかしらと他人のカウンター席から感心し頬杖で見とれていた片丘茶知子の手の届く距離に乱暴に皿が置かれた。
「食っちゃってよ」
ノビのあるいい鳴き声だった。皿の上には蛸のザンギ。
無造作に盛られた小さな唐揚げからもわと湯気が立つ。
板さんは器用に1つつまむとクチバシに放り込んだ。
揚がり具合を確かめるようにかすかに2つ3つ頷くと、
クチバシの上の立派な鼻からふんと強い息をひとつもらした。
鳥の板さんは焼場を口火にして刺場の隅にかがむと一服点けて目を閉じた。
静まる店内にやわらかく煙が一筋上った。
ちちちとフライヤーの油が自分でゆっくりと熱を下げている。
それきり片丘茶知子が鳥と目が合う事はなかった。
カウンターの中の鳥は例によってクチバシをモグモグと小さく動かしていて、
そこだけが相変わらず鳥らしかった。
片丘茶知子は目の前の皿から揚げたてを1つ素手でつまむ。
さくと口中に香ばしかった。
くちゃくちゃと独特の歯ごたえを楽しんでからのみ込んで、間髪いれずに続けて食べた。下味の生姜醤油のかすかな風味と表面と中の歯ごたえのギャップを楽しんでいた。
静寂の1人と1匹の世界だった。
ラッキーとほくそ笑んだ時、店の外ではようやく救急車のサイレンが近づいて来る。
片丘茶知子はすぐに終わってしまうであろう今のこの世界をぎゅうと抱き締め最後のザンギを口に放り込んだ。
PR