地球最後の日だからと朝から騒ぐのでノンを連れて海に来た。
海浜は夏らしく晴れていた。
強烈な陽射しが砂を焼いている。
パラソルだけ借りるとシートを敷いてつくった小陰に逃げ込んだ。
ひゃぁひゃぁと楽しそうに波に追われるノンをしばらく眺めていたが、
バイト明けだったためすぐにうとうとと意識が薄らいでやがて深い眠りについた。
日射と格闘しながら陰から出たり入ったりしていたノンもやがて、
時田登希夫の隣に寝そべるとすーすーと寝息を立てた。
「ときお、かってきた」
長い昼寝を終えるとノンは喉が渇いたと言って財布だけ持ってパラソルを出た。
時田登希夫はサングラスの奥で瞼を持ち上げた。
寝てる間に大量に汗をかいた所為か頭は幾分すっきりしていた。
南中をとうに過ぎた太陽は攻撃姿勢から一転して、
なにかの仕上げの様に海に向かってやわらかくしぼみ傾いていく。
上空ではせり出した岩壁からはえる松の木の傍をトビが2匹旋回していた。
「どっち」
時田登希夫が赤いシロップのカップを受け取ってノンはパラソルをくぐりしっくりと彼に並んで座った。
伸ばした足が膝まで日にさらされている。
移った傘の陰が時間の経過を容易に想起させた。
外はどうだった
「こわくてひろい」
遥か沖に2隻のタンカーがゆったりと進む。
時折吹き抜けるヌルい風が黄昏の予感を感じさせた。
やっぱそっち
「ん」
そう言われノンはひとサジ食べてから自分のメロンを手渡した。
時田登希夫から渡された氷は周りばかり食べられていて細く高い。
ノンは真っ先にイチゴのてっぺんをそのまま口に含んだ。
「つめたいね」
ちょうど緑の氷を口に含んだ時田登希夫はうんうんと頷いた。
ノンが笑った。
ノン
「ん」
ノンはイルカなのか?
「くぇ」
ウソつけ
時田登希夫は久しぶりに少し笑った。
ノンはそれが嬉しくてくぇくぇと続ける。
照れを隠しながら時田登希夫はサングラスをかけ直して寝そべった。
旋回しながらトビがるぅるろろと鳴く。
手を伸ばしTシャツの背中をそっと撫でるとノンはかすかに汗をかいていた。
「ん」
振り返るノンにべつにと小さく首を振った。
今度は脇の辺りを手の甲でさすってみた。
綿を通して伝わる弾力にノンの白い肌を想起した。
ノンは海を見たままそっと手を握ってきた。
細い指がからみひとひとと何かを確かめる。
(ノン)
ノンはわざとずずーと音を立てて氷をすする。
時田登希夫はこれこれと2度、握った手に力を込めた。
1年前。
二十歳になったばかりの時田登希夫はノンに出会った。ひと目で惚れてノンも時田登希夫を受入れた。ノンは日の出とともに目を覚まし日が沈むと眠りに落ちた。夜、ノンは絶対に起きなかった。すぐに時田登希夫は辞表を書いた。ノンと一緒にいる為に仕事を辞めた。
以来、時田登希夫は慣れた“独り”を脱しノンに引きこもった。
「ときお、あれ」
ノンは海を指差した。
首だけ上げてうかがった。
遥か沖の空に大きな雲があった。
そのいかにも夏らしい入道雲は午前に見た時と若干形を変えながらもまだそこに浮いている。
あとはその奥に真直ぐな水平線が見えるだけだった。
何?
時田登希夫は半身を起こした。
ノンは微動だにしない。
黙ったままただじっと突き出した人差し指の方向を見ていた。
雲?
たまらずノンの顔を覗き込もうとした時、視線の脇に閃光を感じた。
眩しさに一瞬だけ目を閉じて指先の方向に視線を戻す。
入道雲と水平線の間、空との境界の辺りに小さな光があった。
小さくてとても強い光が時田登希夫まで届いていた。
「くる」
ノンがちいさく呻いた時に再び閃光、一瞬後、差していたノンの指先に光の線が到達した。
時田登希夫は視界を失った。
しばらくして視力が回復するとそれを待っていたかのようにノンの気は雲散した。
指先からしゃらららと皮膚が小さな破片となってシートの上に散らばった。
全身が剥がれてしまうとノンはつるりとした存在でそのままそこにあった。
変わらぬ白さと美しさでただ形だけが定まらないノンがそこにあった。
時田登希夫はノンを見ていた。
ノン。。
変態したノンはぼんやりと全身を光らせていた。
見ていると少しずつ縮んでいる。
そして表情の様なその光も次第に弱まっていた。
時田登希夫はすっかりクッションの大きさ程に縮んでしまったノンを抱き上げた。
腕に伝わる感触がノンだった。
ノンは今もノンだった。
ノン。。
時田登希夫は立ち上がりパラソルから一歩踏み出すとそこは美しい空間だった。
夏が始まったばかりの波の穏やかな夕景がそこにある。
波打際で裸足の足が海水に触れた時ノンがぴくと動いた気がした。
膝が浸かる所まで進むとノンは子猫程の大きさになっていた。
ノン。。
海水に浸した手の中でしばらくじっとしていたノンはやがてぶるると身を震わせると泳ぐ様にくねり沖へと消えた。
時田登希夫が浸した腕を海から上げるとそれを合図にか強い雨が降って来た。前触れなくいっせいにバケツをがひっくり返した空はいつの間にか黒々とした雲に覆われていた。
時田登希夫はずぶ濡れの全身を引きずる様に海から出た。
雨音に混ざりながら大丈夫かというような叫び声が陸から聞こえる。
時田登希夫はそれには構わず傘の下に戻って行った。
海が満ちて来る。
叩き付ける雨の強さに波は止まっていた。
ただ水際がジワジワと迫って来ている。
時田登希夫は散らばったノンの破片を1つ手に取ってみた。
すっかり硬くなりまるで貝のようだった。
右手一杯にノンの破片をつかみ取って膝を抱えた。
雨の勢いは増しているのにパラソルを打つ雨音が聞こえない。
傘の下で行き場を失った大気流が停滞しできた真空状態が無音の世界をつくっていた。
雷が鳴り出していた。落雷の予感に時田登希夫は身を縮める。
この期に及んで死を恐れていた。
ノンを握る右手に力を込める。鋭利な貝がチクチクと手の平に食い込んだ。
ノン。
切ったかも知れないなどとちまちまと考えていた。
遠くで絵に描いた様な雷光が幾筋も現れては消えた。
そして、雷鳴が遅れて届く度にむずむずと胸がざわめいた。
やがて、海水が足の先に触れた。くるぶしを濡らし、腹、胸まで一気に到達した時、時田登希夫は膝を伸ばして握った右手をゆっくりと開いた。はらはらとノンの破片が落ちる。海中の波に最後の数枚をさらわれながらこれが地球の最後の光景かと海に降り続く雨をただじっと慣れた独りで眺めていた。