仲澤茶之助は指定の時刻より早めに駅に到着した。
ドアが一斉に開き流れにまかせホームに出た。
優先席の前で切っていた携帯の電源を入れ直す。
マサミ先輩からの連絡はまだだった。
デジタル表示で時刻が進む。
19:42。
先頭、最も新宿寄りの階段を降りると、
ハチ公口の小さなくの字改札を抜けた。
そこには10年前ともさほど変わらぬ光景があった。
仲澤茶之助は出口付近に鈍感に溜まる連中をすり抜けて夜空の下に出る。
雨はすっかり上がっていた。
スクランブル交差点は今夜も異様なエネルギーに満ちていた。
入り乱れる横断を待機する者と待ち合わせる者の隙間を縫いながら道路を目指す。
雑踏の先頭まで抜けると仲澤茶之助は雑に畳まれた傘を1度解き2度3度と振ってから丁寧に巻き直した。
そして声を聞いた。
けーじどーしゃけーじどーしゃ
曲と曲の僅かなブランクをついてその声は耳の奥に届いた。
仲澤茶之助は WALKMAN を停止させた。
イヤフォンを外す。
凝(こ)った耳穴が久しぶりに空気に晒(さら)された。
ーじどーしゃ けーじどーしゃ
軽自動車。。“声” をハッキリと聞き取った時、最後の1台が早まる横断者を寸前でかわすとぱちんと信号が変わった。待ちわびた雑踏が動く。仲澤茶之助は端に寄ってその青信号をやり過ごした。
人の時間になって周囲に溜(た)まっていた蒸した熱が行き交う群衆同士に引っ張られ中央で入り混じった。
やがて一斉に点滅する信号。
追い立てられる人々。
スクランブル交差点は一瞬だけ静寂し車の時間に切り替わる。
道路にエンジン音が轟くと例の声が再び聞こえだした。
どうやら、
沿道の植え込みに1番近い車線を車が通過する度に「軽自動車」と呟(つぶや)いている。これもこれもと確かめる様に連呼されるのだが、17台通過して実際の軽自動車は4台だけだった。
仲澤茶之助が最後の「けーじどーしゃ」を聞いてタクシーが通過する。
(ちがうっつーの、、)
仲澤茶之助はふふとツッコミながら横断の体勢を整えた。
ケタタマしく携帯が着信を知らせると信号が変わった。
メールの主がマサミ先輩である事だけ確認すると周囲とともに動き出した。
歩き出してちらと “声” のしていた辺りを振り返る。
道路側、植え込みの陰にナマズがいた。
水の入ったスチロールの容器の縁にアゴをのせ顔だけ外に出していた。
さっきから声が発せられていただろう口がぱくぱくしている。
その大き過ぎる口の脇にヒゲ、そのすぐ上にオマケの様な小さな目玉が2つ、渋谷に出入りする人間どもを何となしに見据えていた。
ナマズがその立派なヒゲでぴんと水を弾くと仲澤茶之助と目が合った。2秒間の見つめ合い。仲澤茶之助が親しみを込めて口許を緩めようとした瞬間ナマズは大きく欠伸した。
(むか、、)
ナマズとの空間が後続に侵されると仲澤茶之助は前を向いた。
7、8歩の間にほぼ全員が四方に交差を始め視界が狭(せば)まる。
懐かしいスクランブルの感覚だった。
素早く “街慣れてる” 者を見定めてその背中にぴたりと身を寄せる。
歩幅に気を配りながらマサミ先輩からのメールの中身を確認した。
交差点を渡り終えて “センター街” に向かったのは仲澤茶之助と1組のカップルだけだった。
“過去の場所” にいちいち目をくれる者はない。
先に進んで行った若い男女もきゃあきゃあと声がしたと思うと暗がりからフザケながらすぐに引き返して来た。
かつての繁華では申し訳程度に街灯が残っていた。
廃れの様を部分的に照らし出して空間に余計に闇をつくっている。
通りに入ると風は止みじっとヌルい空気が沈滞していた。
進むにつれ駅前の明るさが遠のけば光がなくなってそのあとで人造の音が耳に届かなくなる。
しんとした “無” が脳に伝わって仲澤茶之助の意識は一層研ぎすまされていった。
“センター街” にあってもっかの最大勢力は高校生でも外国人でもなく巨大化したカラスだった。
仲澤茶之助は感じている。
通り過ぎるファーストフードやドラックストアの廃墟の陰では確かに黒い怪鳥の集団がじっと夜明けを待機していた。
暗さに目が慣れてきたので変わり果てたかつての庭をぐるりと見回してみた。
耳をすまし目を細めてみてもそこに確かにあったはずの音も光も
感じられなかった。
分かっていたが、、あの頃 “すべて” だったものはすでにこの場所にはない。
かろうじて分かった ABC-MART の交差点にほぉと懐かしんでいると携帯が着信した。
ケタタマしい電子音に辺りが殺気立つ。
“物音を出してはならない”
センター街にできたルールをうっかり破ってしまった瞬間だった。
周囲の廃墟ビルは開け放たれていた。
ドアや窓のあったであろう壁に空いた闇の入口。
その奥からギロリと動く無数の視線を感じていた。
姿は見えない。
それでも巨大カラスのものであろう無数の眼光が細い針となりちくちくと全身に刺さっていた。
仲澤茶之助は破廉恥に鳴り続ける携帯をアスファルトに置いた。
そしてすぐに音源から離れる。
ばさばさと背中で音がする。
奇声に似た鳴き声。
仲澤茶之助は一気にトップスピードで足を回転させた。
慌(あわ)てる筋肉をそのままに全速力でいくつも路地を抜ける。
振り返る事なくぜえぜえと言いながら路駐バイクに身を隠した。
とりあえず窮地を脱した。。そう思った時ズズンと下からの強い衝撃を受けた。
目の前のビルのガラス窓がビリリと震えてすぐにグラグラと地面が揺れ始める。
(地震)
仲澤茶之助は身動きが取れなかった。
ハンドルにしがみつきながらその場にへたり込んだ。
少し離れた所で自動販売機が倒れた。
(大きい)
目の前で軋むガラス窓に注視していると上空に影を見た。
カラスだった。
巨大な黒が2羽急降下してくる。
んな時に。。「見つかった」と頭で観念すると懐かしい声がした。
「ナッカサワー」
最後にマサミ先輩の声を聞いた気がした。
そして仲澤茶之助は気絶した。
頬に当たる強めの風が冷たかった。
いつの間にか上空。
巨大カラスの背中にしがみついていた。
事態が掴み切れぬままいると上空からゆっくりともう1羽近づいてきた。
マサミ先輩だった。
「ハイヨ」
自分の巨大カラスを上手くこちらに近づけると、
マサミ先輩はカーディガンを投げてよこした。
「アトコレモ」
放られたのはセンター街に置き去りにしたハズの携帯電話だった。
すぐにマサミ先輩を乗せた巨大カラスはそのまま降下して行く。
あの。。
声が上手く出せなかった。
どうもと会釈だけする。
伏せた視線を戻した時、マサミ先輩の左腕にはあの時のナマズが抱かれていた。
あ、そいつ。。
ナマズを指差すとマサミ先輩は嬉しそうに何か言ったのだがすでに相当の距離が空いていたので内容は分からなかった。
ずっと手を振っているマサミ先輩の左腕でナマズのヤツは相変わらずの憮然とした表情で仲澤茶之助を見上げていた。
先輩達の巨大カラスが豆粒となったので姿勢を正して受け取ったカーディガンを羽織ってみた。
上半身に暖ができ上空の冷えた強風も気持ちイイ。
上昇するにつれ三日月がやたら眩しくてしばらくしっかりと目を閉じた。
巨大カラスの背中はツルりとしてまるでプラスチック。
2度、轟音が下を通り過ぎたのはおそらくジェット機だろうか。
瞼越しに明るさが落ち着き、
そろりと目を開いてみると眼下に広がる地球でちょうど日本があった。
島全体がピカピカと光っている。
ひときわ明るく光る東京の辺りでくっきりと黒丸が浮き上がっていた。
「位置からして。。さっき “リセット” された渋谷の中心だろうか」
光の白の中の小さな闇の黒はまるでナマズの目だった。
オマケの様なあの小さな目が面倒臭そうにこっちを見上げている。
(あんにゃろ。。)
ふふとそう呟くと仲澤茶之助は視線を上げた。
あとは黙っていた。
巨大な生物に身体を委ねたまま、
飽きる事なくいつまでもずっと黙って宇宙を見ていた。
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