「本日はお招きいただきまして」
ありがとうございました、
そう言いながら頭を下げて腰を折る。
一、二、、三
脳天のつむじを相手に見せた。
三つ数えてからゆっくりと視線を上げる。
鏡の中を睨みつけた。
口元を緩めるのをまた忘れている。
漏らしそうになる嘆息を鼻から抜いた。
せめてもと背筋を伸ばす。
いつにも増して冴えない顔を懸命に正視した。
今朝は寝坊したのである。
アラームはきちんと予定通りに鳴り一旦は定刻に目を覚ましたのだが、しんとし過ぎていた。まるで他人の部屋で目覚めた身体をじっとさせたまま、目だけを動かして窓際を見る。カーテンの端からはまだ明けぬ暗闇が外から内に洩れていた。静寂と闇、両方がなんだか心を細くさせる。どんどん、どんどん内に向いていき思わずまた目を閉じていた。
行くのをやめようかなとよぎる弱気の芽を懸命に摘んでゆく。行くよ、行きますよ、行くけども、でももうちょっとだけ、とやや自分にやさしく折り合いをつけてみると、すぐにゆるゆると意思はひる返り、くるくると螺旋を描きながら眠りの穴へと沈んで行くのであった。
始発電車が発車する。
再び目覚め始めた浅い眠りの耳の奥に警笛が届いた。目を開くとどうやら外はまだ暗い。だけど一日は開始していた。ガタゴト、キーといった電車音が遠くに聞こえている。完全に覚醒した耳は大きなトラックの走音もキャッチした。気は湧き、温まる。それと毛布からようやく飛び出せた。
起き抜けの部屋は他人行儀にすっかり冷えていたが、勢いのまま、てきぱきと用意しておいた服に着替えてしまう。財布の札入れに忍ばせた招待券を丁寧に確かめてから靴を履いた。玄関のドアを押し開く。なだれ込む鋭利な冷気に逆らって外に出るときいとドアの蝶番が間抜けに鳴いた。静かに部屋を閉鎖する。エレベーターホールへは向かわずに階段をとんとんと下りて宿舎を出た。
東からの早朝を間近に控えた澄んだセカイでは、一番列車や馬鹿にでっかいトラックだけではなく、オートバイやらカラスやらコトリ達（鳴き声だけ）もすでに活動を開始している。宿舎を出てぽつぽつと歩き出して、もっと色々が自分よりも先に動き始めている事を知ると「独りじゃないのか」とちっぽけな心がいっそう安まるのだった。
駅へと足を向けながら働き始めた脳で考える。これから会おうとしている「お偉いさん」の朝は早い、というのがもっぱらの評判だった。「始発」で向かわなければ到底会ってなどもらえないという噂である。言い訳を真剣に考えて、考えてそして、思いついたややの屁理屈にこの先を委ねる事にした。駅に着き、切符売場への階段を素通りし大通りのバス停で「始発」を待つ。時刻を確かめた。今日最初のバスが間もなく到着する。立ち止まると身に受ける風の冷たさを感じた。東の空がいよいよ白みだしている。闇のきわに淡く青空が浮いていた。細い水色が今日の晴天を思わせる。それだけで気分は多少つらつとするのだった。
洗面台の蛇口は絢爛（けんらん）な魚の形である。
蛇口をひねった。
口の部分からがばがばと贅沢な太さで水が溢れ出す。
脇に置かれていた栓は巻貝の形だった。
巻貝をシンクの底にはめてみる。
なんとなく水が貯まっていった。
って事は
こいつは海の魚ですか、
そう思うと顔立ちが海のそれっぽく見えてくる。
分厚い唇、蛇口の淵を撫でてみた。
いや
川にだって巻貝はいるか
いる？
緊張を誤摩化そうとしているのかもしらないし、そこから逃げようとあがいているのかもしれない。うわついた意識は向けるべき本流から脇へ脇へと逸れたがった。蛇口を閉める。指先で水面に触れながら、ばしゃばしゃと顔を洗おうかとしばらく迷い、果てに、手だけをゆっくり丹念に洗うことにした。
朝はもう明け切ったのだろうか
「お偉いさん」とのご対面は間もなくである。ここ迄来られた事、ただそれでヨシとしよう、後は「成り行きに任せてみるべ」とアクセントを変えて自分で確認した。
鏡の中で引きつりぐせの口元をもう一度だけゆるませる。
最後のリハーサルを終えていざ颯爽とレストルームのドアを押した。
控え室が静まっている。
中に入ると誰もいなかった。
と言うよりも、もともと誰もいなかったかのようにヒトの気配が一切ない。
自分の他に数人いたゲストもいない、最初に挨拶をした秘書らしき者も手洗いを案内した初老の給仕も誰一人見当たらなかった。
そわそわと右の尻をさすりすぐに出せるよう財布から出した招待状の所在を確かめる。
きらびやかな空間がひっそりと停止していた。
いやな空気である。
独りだった。
意識せぬよう意識せぬようと言い聞かせてみても、部屋がみるみる拡大し自分はどんどん圧縮されてゆく。
全身にたまりだす二酸化炭素を音の出ぬように鼻から放出していると、
馬鹿に大きなテレビの上からネコがぬらりと飛び降りた。
（ぎゃ）
ぬいぐるみだと思っていたのに、いや、ぬいぐるみ「だった」のにか、、あぶなく奇声を発するところである。口を両手で押さえた。静寂を破ってはならない、いつの間にかそんな強迫的な観念に取り囲まれている。音もなくテレビのスイッチが入った。すぐ前でネコがぬううと伸びをする。じわじわと点いた画面では外国のパーティのような楽しげな映像がサイレントで流れ始めた。子供がケーキの上のろうそくを吹き消している。部屋中が動き始めていた。無音のままにあちこちが開始する。部屋全体をひとくくりに電源をぱちんと急に誰かがいれた、そんな感じだった。
やがて、コッチコッチと時計の秒針が音を刻む。それは遠くの様でいて、耳のすぐそばで鳴っているようだった。
テーブルの上のソルト＆ペッパーが近づいてくる。
手の平サイズの二人はロシアの人形だった。
耳許の時計の音はコッチコッチと少しずつボリュームを上げている。塞いでみても音は遮断できなかった。部屋を見回してもそれらしき時計は見当たらない。
ソルト＆ペッパーの片方になんとなく手を伸ばした。
触れる直前。
パカりと胴が横に割れて中からひと回り小さなロシアンが現れた。
パカパカと次々と胴が割れて、あれよと様々な大きさの人形が揃う。
ずらりと並びぴょこぴょこと動くのだった。
おもしろいともう片方を手に取ると軽い。
玉子を割る要領で胴を開くと中身は塩だった。
ロシアの家族がテーブルに広がった白い粒を囲んでいる。
上半身と下半身を戻して皆の傍らにソルトのケースを置いた。
家族が「あーあ」とがっかりした表情でこちらを見上げている。
一番小さな赤ん坊だけがいつまでも楽しそうに跳ねていた。
テレビ画面がザッピングしている。
時折、見憶えのある番組がチラチラと映っていた。
時計のコッチコッチはいよいよ耳に障り始めている。
ふと、この部屋から出た方がいいと思ってドアへと向かった。
嫌な汗をかきながら、足下にも散らばり動き回る様々、ショットグラスやらチェスの駒やらサボテンやらリクガメやらを踏まぬように慎重に一歩一歩進む。テレビの前にいたネコが楽しむように馬鹿にするように両足にまとわりついてきた。歩きづらい。ようやくドアに辿り着いた時、発狂寸前だった。
ドアノブに触れる。
冷たかった。
真鍮の球形を通してこのドアの向こうが伝わってくる。
外だった。
まだ見ぬ外へと迷わずにドアを押し開ける。
ドアの外で朝が明けていた。
外である。
見渡す視界に永遠と外のセカイが広がっていた。
千切ったような秋の雲の間から水色のまだ若い淡い空が見えている。
招待状を取り出して雲にならって千切ってみた。
控え室にばらまいて後ろ手にドアを閉める。
ドアノブがぽとりと落ちた。
顔を上げる。
空なんていつも見てるはずなのに、
突き抜けるセカイがなんだか、
なぜかとっても綺麗だった。
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