「ピンクでいく」
社長はそれだけ言うとゴッと机をノックした。
それが合図。
会議は散会した。
慣れた先輩達は「やれやれ」的に含み笑いで隣りと目配せをする。
未だ慣れぬ新人達は口をだらしなく開けたままきょろきょろと周りを見ているのだった。
いつだって社長の決断はいかにも斬新というか、破天荒というか、、脈絡がなくて突拍子がなくて現場じゃ誰も思いつかない、つか、思いつけない、、ぃや、と言うよりは「それはない」と我々がとりあえず真っ先に外す選択肢をひょいと採用する。会社ってさぁから始めて社長は社長は現場は現場はとそこまで一気に喋ってしまうと、いつの間に、、どこからともなく取り出した煎餅を母は元気よく噛み砕いた。
「でも社長さんはいつもそれで勝ってきた」
助手席からようやくクチがハサまれる。ぼぅりぼぅりといい音が車内に響いていた。説教じみているわけでもなく嫌味っぽくもない、かといって投げ槍というわけでもない、そんな変わらぬ母の口調だった。「お仕事だと結果が全てだから大変ねぇ」の後で私にはよくわからんけどと笑うのである。今日もまた母は物事の核心に近い部分をちくりとついてくるのだった。
だからしょっちゅう現場は自信喪失なのさ
そう口に出してみると気分はやはりすっとしている。半分、と言って手を差し出すと母はガサゴソと新しい一枚を取り出して、嬉しそうにパキっと乾いた音をさせた。
トンネルを抜けて景色がガラりと変わってから我々は長い渋滞に巻き込まれている。
ただストレスはほとんどなかった。
大きなカーブを描きながらゆるく山間へと落ちて行く道である。連なる車の列は遥か先まで見渡せていた。我々、山を貫いて来た者と山に沿う線路と並行して来た車の列がすぐの下界で合流している。時折、トコントコンと言う音に振り返って見ると小さく見える太洋の水平線から登山鉄道が近づいて来るのだった。
想像に俯瞰してはおもちゃのジオラマの中にいるちっぽけな自分を楽しんでいる。急ぐ必要もない事と飽きる事のない景色がゆえにかイライラしそうな状況にも不思議と折り合いがつくのだった。標示が見える。すぐ先が有料道路への分岐点だった。一台のスポーツカーが列から抜ける。業を煮やしたように高級なエンジン音が辺りに低く響いた。車はあっという間に遠ざかって行く。押しやられた静寂はすぐに寄り添って戻り、再び大きなスケールで風景がゆるゆると流れ出すのだった。
「で、今日はなんで急に来た?」
母の質問には応えずにのけ反ってポケットのフリスクを探る。
指が届かないので一旦シートベルトを外した。
独特の懐かしい香りがして、
助手席を見るとポットから注がれたばかりのどくだみ茶が湯気をあげている。
「ま、いいけど」
そう言って母はふーふーと茶をすすった。
頂上付近。
トンビだろうか上空で二羽、滞空時間を競うように大きく旋回していた。
それからしばらくはお互い無言になって、
小さくしぼっていたオーディオからのグリーグが車内を満たす。
恋人との事を話そうかどうしようか迷いながら、ぼんやりと車を数メートル進めては停まりまた進めては停まるを繰り返していると、やがて、すーすーと安らかな寝息が助手席から聞こえてきた。
ゆるやかなアールが運転席正面の車窓の景色を少しずつ変える。山だけはどの角度からも目に入るのだった。そろそろ紅葉の始まりそうな山はしんとしてただじっとそこにある。所々で細く湯気が上がっていた。まるで呼吸のよう。木々のモコモコとした緑の濃淡をじっと見比べていると山にどんどん吸い込まれていた。遠いのに近い。奇妙な感覚に意識はとらわれていくのだった。窓を薄く開ける。湿潤な冷たい空気が車内にすっと入り込んだ。山の香り。植物っぽいがもっともっとスケールの大きな匂いだった。ゆっくりと深く吸い込んでゆく。胸を心地良く冷やしながら陶酔がますます身体に浸透し身も心もどんどん軽くなってゆくのだった。
「駅前を抜けたのね」
母が軽く身震いをして目を覚ました。
ぁあごめんと言って窓を閉める。
車は渋滞を抜けカーブの連続する細い山道を軽快に登っていた。
どうやら日没が近い。
いつの間にか抜けていた青空は白く薄曇ってきていた。
「こっちは月が大きいんだって」
父さん、また来たんだ
「大き過ぎるんだって」
どういう意味?
「さぁね」
観光バスとすれ違う。
減速し慎重にハンドルを切った。
「会ってるの?」
母が死んで、
そして落ち着いてからは父とほとんど連絡をとっていない。
「会ってあげなさい」
忙しくて、と出かかった言い訳をのみ込むと、
数台のバイクが我先にと楽しそうに脇を追い抜いて行った。
「おしっこしたくなっちゃった」
母がそう言うので見晴らし台で車を停める。
ざりざりとタイヤが小さな石を踏みながら、
崖に車を向けるとパノラマで自然が圧倒した。
エンジンを切ってみる。
一瞬で深い静寂に支配された。
「にしても」
ピンクはないわよね、
そう言って母は不意に車を降りた。
ま また来るから
慌てて投げかける。
懐かしい笑みで母が振り返った気がした。
静かにドアが閉まる。
ぼぉとした温もりだけが助手席に残っていた。
母が消えて代わりにじんわりと夜が訪れる。
エアコンを切ったのでフロントガラスが曇り始めていた。
シートベルトを外して外に出る。
耳の奥がつんとした。
そろりそろりと崖へと進む。
柵まで来ると光のほとんどない黒い下界が眼下に広がっていた。
引きずり込まれそうになり顔を上げる。
無防備の開衿に冷えた山の息がひゅうと抜けた。
空は所々で曇っている。
星は見えなかった。
雲が速い。
ひときわの明るさの気配に東の空を振り返ると月だった。
見事な望の月。
流れる雲の合間から見える光の円がやたらに眩しかった。
「大き過ぎる」
吸い込まれそうになりながら、
そう言った父さんに想いを巡らせてみる。
なんだか、
もうしばらく、
もうしばらくと長居しながら、
母がそろそろ帰りなさいと耳許で囁いた時、
すっかり冷えきったはずのカラダの中で、
細い芯の部分だけだけど、
じんわりとずっといつまでも温かだった。
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