「チチ チチチチ」
鳥の鳴き声を聴いた。
曲と曲の間である。その数秒の沈黙をついた細い波がインイヤーのゴムキャップをすり抜けて私の鼓膜まで到達した。酸性雨を避けていた虫の類がごそごそと動きだすから鳥の類が歌いだす。差していた傘を下げると、案の定、雨はほぼ止んでいた。繋いでいる左手を離す。屈んでレインコートのフードを脱がせてやった。立ち上がってから私は自分の傘を閉じる。聴いていた音楽を停止させた。イヤホンを外すとすぐに喧騒が内耳を満たす。大雑把に髪を束ねると雨上がりの風に乗った街の雑踏がむき出しの耳の入口でわさわさと産毛を撫でた。遠くに見えていた晴天はずいぶん広がってきているが、頭のすぐ上の空はまだ灰色である。厚そうな雲が低い位置でどんよりと滞っていた。イヤホンを巻き付けて携帯電話をバックに戻す。私は娘の手を引いて再びバス停へと歩き出した。
「ぉぉ」
移動にそろそろ飽きてきた娘を唸らせたのは虹である。バスから地下鉄に乗り換えて最寄り駅に到着すると外は明るかった。私達は列車を降りてエスカレーターを上がる。改札を抜けてステーションへの人の流れに乗った。いつもの出口から外に出る。空を見上げると虹が出ていた。青空に蹴散らされた様な雲がゆっくりと流れている。ひときわ高い建物は発射台だろう、尖塔の先に見事な虹がかかっていた。前回虹を見たのはいつだっただろうか、私は思い出そうとしてすぐに断念する。久しぶりの虹はずいぶん細く感じた。
私と娘はいつもより早く手続きを済ませるとそのまま船に乗り込んだ。席を確保し遅めのランチをオーダーする。二人でゆっくりと食べ終えて、今、、食休みにシートに深く埋もれていた。まったりの頭で私はぼんやりと感慨している。
私には月での記憶がほとんどない。
ただいつも、帰りの船で小さな丸窓から見える地球がなぜかとっても懐かしい。
漆黒の宇宙にぽんと浮いている青い惑星を見るとぽかぽかとした安心感に包まれた。
母もおばあちゃんも月の子供だったと聞く。その先代も、そのもっとずっと前の祖先も、そして、このコの娘もその先の子孫もきっと、、
みんな月を憶えているのだろうか。
娘はお絵描きをしていた。隣のシートで慣れた調子でスケッチブックを広げている。備え付けのテーブルの上で黙々とクレヨンを走らせていた。
月の子供は六歳で寮に入る。
来月がその時だった。
送迎もなくなる。
座り直しそっと娘の画用紙を覗いた。虹が描かれている。ずいぶんと太過ぎる七色の帯が鮮やかに画面を横切っていた。その下に私らしき大きめのものと娘らしき小さなものがくっ付いてどうやら虹を見上げている。私の視線に気づいた娘が「ぬって」と言ってクレヨンを一本寄越した。虹のまわりが広く塗り残っている。あお、と記された紙を剥いで私はクレヨンを寝かせた。
「ぉぉ」
小さく唸る娘に心地良くクレヨンをごしごし走らせた。クレヨンの長さの太さで虹のかかる空がどんどん青く染まっていく。「やる」と言う娘にクレヨンを返した。
月の子供はなぜみんな女なんだろう。。
娘のお絵描きをぼんやりと眺めながらふとそんな事を思ってみた。娘からハミングが聞こえだす。私は自慢げにひゅうひゅうと口を尖らせて同調した。娘はまだ口笛を吹けない。何かを見透かされ、本日三度目の「ぉぉ」は出なかった。娘は少しだけトライしてから再び鼻歌に戻す。娘の軽快なクレヨンさばきに空全体がいよいよ真っ青に染まろうとしていた。完成を見守りながら、私はクレヨンのケースからくろをつまみ上げる。画用紙の隅に小さく、月の母娘と記した。
「なんてかいたの」
内緒よ、と悪戯に言うと娘はその小さな口を尖らせた。
娘の目の前に垂れた髪をすいと耳にかけてやる。
伸びたね、
そう言って私とお揃いに髪を束ねてやると、
娘は突き出した唇を戻しながらへへと小さな歯を見せた。
私もへへと声に出す。
「あお」を折って残りの空を二人で塗った。
娘とのコラボレーションが完成すると船はゴトンと揺れた。
それを待っていたかのように月へと発進する。
月の母娘を乗せた船はゆっくりと地球を離陸した。
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